GReeeeNとはてなの間 ―加齢により感性が変化する事の恐怖
穂村弘『本当はちがうんだ日記』所収のエッセイ「この世の大穴」にこんな話が載っていた。
三十代になってから、グリーンアスパラや韮や白菜が好きになり、四十代になってから葱が美味しく感じられるようになった。「名物」なんて概念は持っていなかったのに、旅行に行く前に「あそこの美味しいものは」と考えるようになった。
昔は第一印象で好き嫌いを決めていたのに、最近では付き合いの中で長所を見出すことも増えてきた。
他人を認められるようになって心から嬉しく思うものの、この道はどこへゆくのかと不安になる。
なんとなく、入賞しなかったパチンコの玉が、最後に同じ場所に吸い込まれるように、ひとつの大きな穴に向かってゆく所を想像する。
何一つ知らず、どんな考えも持たず、泣きながら産まれてきた自分の全てが、最後は世界の多様な豊かさという、「この世」の大穴に吸い込まれゆく。これは錯覚か、妄想か。
学校を追い出されたり、神秘思想に近づいたり、めちゃくちゃだった筈のヘルマン・ヘッセが至った晩年の豊かな境地とは、この大穴とはちがうのだろうか。成熟後の赤毛のアンが手に入れた穏やかな幸福はどうか。
新聞などで、焼身自殺者や、とんでもない事件を起こして全く反省なしに死刑になった者の記事をみて、心を動かされることがある。それは本人の考えや事の不幸などは別に、たとえそれがより悪い穴であっても、間違った穴であっても、とにかくその魂が最後の大穴だけには吸い込まれなかったという一点の印象に関わっているようだ。
それについてどう捉えるのかはともかく、年を経て好みが変わっていく、どちらかというと広くなっていく、というのはほとんどの人が経験することなのではないかと思う。
自分も今、これに直面している。食べ物の好みも、本や映画の好みも、全般的な考え方も、裾野を広げる方向で変わってきている。
ただ気になる事がある。上で引用したエッセイは、3・40代の話だ。
対して私は今25歳である。25歳のフリーター。本を読んで、映画を観て、スクフェスをやってニヤニヤしている。ニコニコ動画でアニメを見て、最近2話以降有料多すぎじゃね?とぼやいている。どうしてこうなった、どうしてこうなった…
というのは置いとくとして、「年をとって感覚が変わったな」と思うのに、25歳は早くないだろうか。
生クリームよりもあんこ派に傾きつつある。どら焼きを食べたときの多幸感といったら、脱法ドラッグの常習者に教えてやりたいぐらいである。
ネギもニラも白菜も美味しくてしかたがなく、苦手だった頃の感覚が思い出せない。
映画を観るとすぐ感動するようになった。たまこぉー!もちぞー!ってなる。
昔ピンと来なかった小説が面白く感じられる。『銀河ヒッチハイクガイド』の一体どこら辺が昔の自分にとって面白くなかったというのか。全く理解できない。
人に対しても、色々な物の考え方に関しても、割とおおらかになってきた。
25歳でこうなったのだから、これから更に感性は変わっていくのだろう。
穂村弘の言う「大きな穴」に、吸い込まれ続けていく。吸い込まれ続けて、その先には何があるのか。
ピンとくる幅が広がり続けて、最終的にGReeeeN的世界観に共感しだすのか?臆面もなく「絆」とか言い出すのか?
そんでもって「昔はこういうの嫌いだったけど、今は全然。前はなんであんなつっぱってたのか、全然思い出せない(笑)」とか言い出すのか?
それは嫌だ。さすがに嫌だ。
おおらかになりたいとは思っているが、思春期的な尖った部分も捨て去りたくはない。
ひねくれていたい。そうじゃ無ければはてなブログなんてやらない。アメブロとかライブドアとか使う。
はてなには、いくつになってもセンシティブな人がたくさんいる。心の在り方としてパンクである。ただそのセンシティブさがあまりに行き過ぎると、心を病んでしまうのだろうなと思う。
大きな穴、ブラックホールならぬGReeeeNホールに吸い込まれないように。病院や警察にもお世話にならないように。綱渡りをしながら生きていきたい。
そんな事を言いながら、いつかどこかに落ちていくのだろう。それは必ずしも不幸とは言えないが、今はまだ綱の上にいたい。
「エス」ではなく「ブロマンス」 友情百合に萌える
最近「思い出のマーニー」のCMを見るとトキメキを抑えきれない。
「もちろんよ、許してあげる!あなたが好きよ!」
なんだこれ、なんだこれは。観に行くしかないじゃないか。
友情百合が好きだ。明確に恋愛感情が描かれている作品ももちろん好きなのだが、それとは別枠で萌える。
タイガー&バニーをタイガー×バニーとして楽しむお姉さん方と同じような楽しみ方だろうか。
明確に恋愛として描かれていないのがミソであり、多分そのブロマンス感(この単語の女性版、何かいいものが無いだろうか)に萌えている。
女性版ブロマンスなんていうとピンと来ない人も多いかもしれないが、「マリみて」なんかはそれの最たるものだと思う。
以前はブロマンスというより「エス」として見ていたため、
何巻かは忘れたが、祥子さまがモノローグ内で「恋愛感情ではない」と言いきってしまった事についてショックを受けていた。
だが最終巻が出たため久しぶりに読んだところ*1、エスだと思って読んでいた自分が間違っていた事に気付いた。
最終巻のエピローグでは、3年生になった登校中の祐巳へ、ジーンズ姿の祥子さまが声をかける。
そして春休み中に行った旅行の写真を渡し、祐巳のタイを直そうとする。
言いながら祥子さまは、祐巳の襟に触れた。その指はセーラーカラーのラインをなぞり、タイに到着するとそこで離れた。
「お姉さま?」
「やめましょう、あなたはもう、紅薔薇さまなんですものね」
タイを直すほうも直されるほうも、小さく笑った。日常の一部と化していた習慣を改めるのは、なかなかに難しい。
卒業しても、「タイが曲がっていてよ」なんてやらなくなっても、二人の関係は続く。
祥子さまが卒業した後のそんな二人を見て気付いたのだ。「マリみて」は女学生特有の淡い恋愛を描いた「エス」ではないと。
かといって、二人が将来パートナーとして人生を共にするレズビアンだという訳でもない。
これは女同士の、生涯に渡って続くであろう絆を描いた「ブロマンス」なのだ。
祥子さまが卒業しても、祐巳が卒業しても、二人がそれぞれ結婚しても(抵抗はかなりある。あるがマリみてはそういう世界観だと思う)絆は続く。
もちろん舞台装置や少女小説的な心の揺れ動きなど、エスを意識したものは多分にあるとは思うのだが、根本的な絆の有り方はブロマンス的であると思う。
この「ブロマンス的百合」、もっと流行れ!と常々思っている。
エス的百合でもガチ百合でもなく、きらら的な百合ともちょっと違う。プリキュア百合は「ブロマンス的」な気がする(ひびかなとか)。
具体的には、紺先輩×歩鳥だとかイサコ×ヤサコだとかの薄い本増えろ!pixivの投稿増えろ!と思っている。
杏奈とマーニーの薄い本下さい!pixivにあればブックマークします!☆も付けます!と思っている。
マンガ - 「『電恋』」/「kazu3」の漫画 [pixiv]
こういうの!こういうのがもっと読みたいんだ!
ただ一つだけ気を付けたいのが、「ブロマンス的百合」を期待していた所に男キャラが絡んできても怒らない、これは大事だ。
個人として悲しんだっていい、だけど作者に文句を言ったり、その事を理由に作品そのものを否定したり、それだけはしてはいけない。
本来百合作品ではないものに、萌えさせてもらっているだけなのだから。
マーニーが「百合」じゃなかったとしても、途中で初恋の男の子とかが出てきたとしても、それとは別に一つの作品として観る目を忘れずにいたい。
自分にとってファッションとは「石ころぼうし」である
Q31―ドラえもんに何かひとつもらえるとしたら、何がいいですか?
A―(即答)"石ころ帽子"ですね。だって、誰にも気にされないでしょ。
p119
『かってに研究しやがれBOOK』少年サンデーかってに研究委員会 2004 小学館
久米田康治インタビューより
自分のスタンス
はてなでファッションに関する記事が多く挙がっている気がする。という事で自分も、ファッションに関する自身のスタンスを考えてみた。
私が服を選ぶ時の基準はただ一つ、「目立たない事」だ。
暗色系の服を買うだとか地味な服を買うだとか、そういった事ではない。むしろ地味すぎると悪目立ちする。
ありふれた、無難な、尚且つ自分の見た目や性格に合った服を買う事。
街中を歩いていても誰も自分の事を認識しない「モブ」を目指す事。これが私にとってのファッションだ。ファッション誌に目を通すのも、自分と似たような雰囲気を持つ人のファッションをチェックするのも全て「モブ化」のためだ。
消える訳ではないけれど、居ても誰も気に掛けない。そんな「石ころぼうし」効果を求めて、半日服屋をうろつく。話しかけてくる店員に耐え(マジ怖い)、これだ!と思ったものを試着する。
鏡に映った自分をみて普通!となれば合格、きもい!となれば不合格。
私にとってファッションは自分を表現するものでも楽しむものでもなんでもない。
かと言って不細工だからファッションなんて興味ないなどと言ってカーチャンが買ってきたピコのパーカーを着ていれば浮いてしまう。
「えーマジピコ!?ピコが許されるのは小学生までだよね!」。そう言われないため服を買っている。
人のスタンス、自分のスタンス
その昔『脱オタクファッションガイド』や『電車男』が流行ったとき、「脱オタ(ファッション)」すべきかどうかが軽く議論になった。
それに関して私は「JKの笑い声が自分を笑ってるように聞こえるのなら、した方が楽になれる」、そう考えてピコをやめた。リュックもやめた。
重いリュックを捨てれば、自分が笑われているなんて自意識過剰も捨てられる。
あれから10年、最近ではいかにも「オタク」な人達はあまり見かけなくなった。
皆、モブになる事を選んだのだろうか。それともファッションを楽しんでいるのだろうか。それともオタクなんてもういないのだろうか。
そんな中、昔ながらのオタク然とした恰好の人を見かけると何処か懐かしくなる。尊敬の念すら沸いてくる。
服を買う時間もお金も、きっともったいないのだろう。その結果後ろ指をさされても、自分の道を貫く。一種の求道者のようだ。
昔、脱オタ肯定派に走った思春期の自分は、アキバ的ファッションを見下していた。現在では逆に、かっこいいと思っている。
ファッションよりも自分の好きなものを優先させる人、ファッションが「好きなもの」な人、ファッションを周囲に溶け込むために使う自分。
いろんなスタンスがあって良いのだと思う。今はそう思うようになった。
百年の孤独より赤朽葉家の伝説の方が面白い? オマージュと本家、どちらを先に読むか
丁寧に選んだ故にエッジにいるのではなく、拘って選んでないが故にマイナーなものも知っているに過ぎない - 太陽がまぶしかったから
この記事が面白かったので、それについて思ったことを。
上の記事ではヘーゲルのアウフヘーベンという概念を引いたうえで、こう述べている。
この概念をあてはめると、しばしばマイナーになってしまう派生作品にも系譜学的に源流となるメジャー作品の中の「積極的な要素」が含まれていると考えることができる。実際、過去作品の引用の羅列のような本や映画やアニメなども多いわけだし、主張や物語の構造やSF的アイディアにも大きな違いはない。むしろ迂遠になりがちな源流作品よりも骨子を抜き出すのが楽だ。主観的に順序が逆になれば、源流側の作品にこそ「古さ」を感じるし、理解するのも楽になる。
つまり「積極的な要素」はどうせ保存されているのだから、新しいものだけを摂取してればよいという暴論もあり得る。こういう事を書くと、本当に良いものを知らないままなんてとか言われるのだろうけれど、名作を効率よく摂取するためのリストをメンテナンスし続けたり、買っただけで満足しているよりはいくらかマシだろうという思いもある。選択基準は「偶然近くにあったから」で十分じゃないのかな。
これがアリかナシかはいろいろな意見があると思うのだが、私はアリだと思った。
何を読んだかではなく、何を得たのかが大事だ。
ただ私はこれからも「これだけは読んでおきたい名作100選」のようなリストをブックマークするのをやめられない。
「これを読んだ」と言いたい、そういう虚栄心を捨てられないからだ。
北上次郎と大森望の対談型書評集『読むのが怖い! 帰ってきた書評漫才~激闘編』
で、両氏がお互いにオールタイムベスト3冊を読ませる、という企画があった。
そこで大森望はその中の1冊に『百年の孤独』を選び、それを北上次郎は読んだ。
『百年の孤独』は多くの作家が名作として挙げ、名作リストのようなものにもよく登場する。
が、北上次郎は「面白い」とはしつつもピンと来なかったようだ。
北上 いや、面白かったよ。面白かったけど、先に『赤朽葉~』読んじゃってるからさ。最初にこれ読んでたらビックリするんじゃないかな。
大森 (笑)。そうなんだ。
北上 『赤朽葉~』の本家だって聞いてたから、なるほどねって読み始めたわけ。だから『赤朽葉~』を読んだときはビックリしたんだよ。よく考えるなあって思って。
(中略)
北上 年数経っちゃうと類似のものを先に読んじゃってるから、なかなか感動が伝わってこないもの、っていう違いはあるよね。
p302
大森 新本格を読んでからエラリー・クイーンを読んだらつまんなかったみたいな話ですね。
北上 そういうのあるの?
大森 本格ミステリだと、黄金時代の大トリックを前提にして、そのバリエーションを編み出すのが常道なんですよ。そっちを先に読んでも、「このトリック知ってる!」と(笑)。
新本格の場合は、ミステリマニアの作家がむかし感動したトリックをアレンジして、近代的にしてるから。
北上 でもそれはしょうがないよね。読者も世代交代してるし、時間があるんだからさ。
p304
北上次郎は割と感想をストレートに表現するタイプで、これはすごいだとかこれは物足りないだとか、率直に話す。
いいおっさんなのに、「格好つけずに」本を評せる。この姿勢が持ち味だ。
小心者の私は同じような事を思っても、多分言えない。
実際の所は、エラリー・クイーンより先に新本格を読んで、それに驚いたり感動したりしたのならそれでいいのだと思う。
小説には時代性があるものだし、その意味でも新しいもの、自分と同時代のものを読む事には意義がある。
それでもオマージュを先に読んでしまう事に対してどこか「もったいない」と思っている自分がいる。新鮮な気持ちで原典に触れて、「いやぁー良かった」と言いたい。そんな事を考えながら、今日も積読が増えていく。
多分この性分は捨てきれないが、「名作」を読むことが全てではないという事は、頭に留めて置こうと思う。
百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))
- 作者: ガブリエルガルシア=マルケス,Gabriel Garc´ia M´arquez,鼓直
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2006/12
- メディア: 単行本
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ゾンビ映画童貞を引きずり込むための傑作ゾンビ映画12本
「ゾンビ」というジャンルは一般化した。が…
(以下、「まずはこの3作品」まで飛ばしてもらっても大丈夫です)
ゾンビが好きだ。見たゾンビ映画の本数もまだまだ少ないゾンビ初心者ではあるが、ゾンビを観ると妙に心がときめく。荒木飛呂彦が『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』の中で「ゾンビには一種の癒し効果がある」みたいな事を言っていたと思うのだが、全く同意見である。*1
そんなゾンビ映画であるが、ここ数年割とブームになっている。
というより、ブームを経過して「ゾンビ」というジャンルがより多くの人に認知されるようになったという感じだろうか。
ハイスクールオブザデッド、アイアムアヒーロー、さんかれあ、りびんぐでっど!、ゾンビ取りガール、Z、女ンビ等々…
正統派から萌え系非モテ系まで、数多くのゾンビ漫画が登場した。
映画「ゾンビランド」が興業成績1億ドルを超える大成功を収め、アメコミを原作としたドラマ「ウォーキングデッド」は現在まで続く人気シリーズとなった。
そしてしょーもないものからなかなか見られるものまで、今も数多くのゾンビ映画が作られ続けている(大抵しょーもない)。
「バイオのパクリかよwww」
おかげで、ゾンビそのものに親しみを持つ人は増えた。ゲテモノジャンル的な扱いはされない。
が、意外な事にゾンビゲームや漫画は知っていてもゾンビ映画は見たことが無い、ゾンビ映画童貞が結構いるのだ。
アニメや漫画にゾンビが登場すれば未だに「バイオのパクリかよwww」とコメントされたり、主人公がショッピングモールに行けば「デッドライジングのパロか」と言われたり。
節子、それ元祖ちゃう!オマージュや!と言いたくなるような場面に出くわす。*2
ゾンビ映画に限らずこの手の「時間経過によって元祖が勘違いされる現象」はありがちなもので、自分自身きっと色々勘違いしている。
が、やっぱりファンとしてはそれちゃうねん、と言いたくなるものであり、
あのな、こういうのがあってな…といらぬお節介を焼きたくなるものである。
という事で前置きが長くなったが、ゾンビ初心者による、ゾンビ初心者のための入口を考えてみた。
まずはこの3作品
ゾンビ
いいから黙って見ろ。ゾンビ=ショッピングモールの元ネタ。いろんなものの元凶。見ないと死ぬ。
※3バージョンあるが、最初は無難に「米国劇場公開版」がおすすめ。
ドーン・オブ・ザデッド
高校生のときなんとなく応募したこれの試写会にあたったのが、ゾンビとのファーストコンタクトだった。「ゾンビが襲ってくる上に噛まれれば自分もゾンビになる」というどう足掻いても絶望な世界観に始めて触れ、緩急の激しい展開に興奮し、
観終わった後1週間は「今自分の居る世界でゾンビが発生したら」という妄想に浸っていた。思春期の影響はデカい。
ゾンビが蔓延る前から社会からはみだしていた4人による、青春ロードムービーの要素を持ったゾンビ映画。
コメディあり、アクションありの、多分一番人に勧めやすいゾンビ映画。私の母にも好評だった。トゥインキー食べたい。
男なら黙ってロメロ三部作だろクソが、と言われそうだがちょっと待ってほしい。
2010年代に生きる相手に、最初からロメロ三部作を見せつけて分かってもらえるのか。
「ゾンビ」の面白さは分かってもらいやすいと思うのだが、ナイトオブ~とえじきはどうだろう…と少し不安になってしまう(個人的にはもちろん大好きだ)
それよりも、タイプの違う作品3つを見てもらい、間口を広げるのはどうだろうか。
そして、3作品の中で一つでもハマった作品があれば、それに合わせてこちらの作品もおすすめしたい。
「ゾンビ」にハマった人へ 正統派3作品
ナイト・オブ・ザ・リビングデッド
今あるゾンビ映画のベースを作りあげたジョージ・A・ロメロ監督の通称ロメロ三部作、第一作目。ゾンビ映画は自分にとって「癒し」だが、この映画は唯一純粋に「怖い」と感じた。
一軒家という閉鎖空間の中追いつめられていく恐怖、変貌していく登場人物、皮肉の利いたラスト。ホラー映画らしい怖さがつまった一作。モノクロ映画だが、それが却ってゴア描写の生々しさを際立たせている。
これを始めとしたロメロのゾンビ映画は社会的背景を下敷きに描かれており、それを調べてみるのも面白い。*3
死霊のえじき
ロメロ三部作三作目。先程あげた「ゾンビ」が二作目。ゾンビ映画の華、「密室内での仲間割れ」が思う存分堪能できる。ローガン博士の実験により知性を獲得したゾンビ、バブの存在感が凄まじい。
これ以降、「ダイアリーオブ~」を除いてロメロゾンビは知性を獲得していく。
「えじき」→「ランドオブザデッド」→「サバイバルオブザデッド」と発表順に沿って見るのも面白いが、サバイバルは「ロメロが好き」でないと厳しいかもしれない。
サバイバルは「ゾンビを主張を伝えるための道具にしか使っていない」との声もあるが、ランドのラストを見るに「ゾンビ愛故にエネミーとしてのゾンビを描けなくなってしまったんじゃないか?」と個人的に思ったりする。
だからランド後はいまいちなんじゃないか…と。
サンゲリア
ゾンビらしいゾンビをめいっぱい味わえる。ストーリーなんて飾りです。偉い人にはそれが分からんのです。
リバイバル上映を見て、ドッドッドッドッというリズムに合わせてゾンビがゆっくり起き上がるシーンで何故か感動して泣いてしまった。
サメVSゾンビ(&おっぱい丸出しのねーちゃん)の迷シーンも有名。
「ドーン・オブ・ザデッド」へハマった人へ スリル溢れる3作品
28日後
めちゃくちゃ走るよ!静と動のバランスが好き。
ここに入れるべきかどうか迷ったが、キャラが立っておりエンタメ度が高く、後味も良い、という事でいまどきなティーンにも薦め易いロメロゾンビとして入れてみた。
ちなみにロメロのゾンビ映画は全て同一世界での出来事であり、作中時系列でいうとこれが最後にあたる。そこで出ている結論があのラストか…と思うと非常に感慨深い。
REC
走るよ!密室だよ!POVだよ!
「ゾンビランド」にハマった人へ コメディ系3作品
ショーン・オブ・ザ・デッド
ゾンビとコメディの相性の良さを見せ付けた作品。やたらとゾンビ映画の主人公にダメ男が多いのもこの映画の影響(かもしれない)。
クイーンの「Don't stop me now」のイメージを一変させる、あまりにも酷い使い方は必見。
「意外と真面目にゾンビ映画してる」との定評もあり、やたらとツタヤにプッシュされているのもあり、割と幅広い層に愛されているゾンビ映画。
ゾンビヘッズ 死にぞこないの青い春
体はゾンビ、心は人間な「半ゾンビ」となった主人公によるゾンビ視点コメディ。
ゾンビとして人間に追われつつも、同じく「半ゾンビ」のろくでなしと一緒に恋人のもとを目指す。が、会えたとしても自分はゾンビな訳で…
ちょっとした切なさもありつつ、気軽に見られる楽しい一作。完全にゾンビでありながら主人公になつく「チーズ」のキャラクターがかわいい。
ロンドンゾンビ紀行
今時のろのろ歩くゾンビなんてスリルが足りない?なら逃げる方の足を遅くすればいいじゃない。というコロンブスの卵的発想のゾンビ映画。
老人ホームに襲い来るゾンビに、武装した入居者たちは勇敢に立ち向かう。ゾンビに向けて容赦なく銃器をぶっぱなす爺ちゃん婆ちゃんが超クール。
「歩行器で逃げるおじいちゃんVSそれを追いかけて歩くゾンビ」はショーンの「Don't stop me now」に並ぶコメディ系ゾンビ屈指の名シーン。
ということで、以上12作品をチョイスした。
もちろんこれ以外にも面白いものは数多くあり、どれを入れるかは非常に迷ったが、とりあえずの「入口」としてこれらを選んでみた。
ゾンビ映画童貞の貴方やゾンビ映画童貞が身近に居る貴方の、参考になれば幸いである。
*1:手元にないのでうろ覚え。孫引きになるので引用は避けるが、探してみたところこちらのブログに該当部の引用があった
http://ameblo.jp/kashiyoshi0584/entry-11306190815.html
*2: 最近だとニコ生で見た「スペースダンディ」4話でこの手のコメントが見られた。
ちなみにこの4話、主人公が読んでいるのが「ゾンビ映画大事典」だったりと小ネタ満載。この話だけで見ても面白いのでゾンビ好きは是非。
*3:ただナイトオブ~に関しては「そのつもりは無かったけど見た人が色々解釈してくれたんだ。それでホラーにも社会的なメッセージを乗せられると気付いたのさ」みたいな事を言っていた気がするのだがソースが思い出せない。誰か知ってる人いたら教えてください…
死にたくなったら押してみる ―「Yo」アプリの使い方を考える
少し前、相手に「Yo」という通知ができるだけのアプリが話題になった。
話題に乗り遅れた感もあるが、使い方をいくつか考えてみた。
恋人へのモーニングコール替わりに
朝起きたらまず恋人に電話して、「おはよう」と言い合い、2、3言交わして電話を切る。あるいは、メールやLINEでおはようと送り合う。
私には縁がないが、そんなマメな事をやりあっているカップルが毎日どこかに存在する。
でもそれ、面倒くさくないか?
内心どちらかがもうめんどくせーと思っていたり、実はどちらとももうめんどくせーと思っていたりしないだろうか?
そこでYoだ。
毎朝恋人から送られてくるYoに、Yoを返す。
相手はどんな気持ちを込めてYoを送ったんだろう、今日も相手は元気だろうか。そんな事を、受け取ったYoを見て考える。
なかなか文学的で素敵だ。しかもめんどくさくない。
年賀状の代わりに
はがきで出すのはめんどうなのでメールで。メールを出すのもめんどうなのでLINEで一言「あけおめ」。
それもめんどうなのでもうYoで。大丈夫、元旦に出せばきっとニュアンスは伝わる。
気持ちを伝えるYo
職場の先輩に良くしてもらった、知人に迷惑をかけた、お世話になった上司が退職する―
ありがとう、ごめんなさい。さようなら。そんな気持ちを手紙やメールに込め…るのもめんどくさい。もう何もかもがめんどくさい。そこでYoだ。
大丈夫、タイミングを見計らえばきっと伝わる。人間の想像力を信じよう。
死にたくなったら送る
両親でも恋人でも友人でも誰でもいいが、大切な人にフレンドになってもらう。
しばらくは意味もなくYoを送りあって遊ぶだろうが、特に決め事でもない限りすぐ飽きて使わなくなるだろう。
ただし自分の中だけで、どうしても耐えがたくなった時、一度だけYoを送ると決めておくのだ。
職場で酷いいじめにあっている、20連勤でもう限界、FXで有り金全部溶かした、好きな声優に彼氏がいた――「死にたい」
そう思ったときに、大切な人にYoを送る。
久々に送られてくるYoに、きっと相手も返してくれるだろう。
もうだめだ、と思ったとき、シンプルな形で相手とつながれる。
間の抜けた「Yo」の2文字に、ほんの少し癒されるかもしれない。
はてなブログを「投稿型SNS」だと勘違いしていた話
私ははてなブログを「投稿型SNS」として捉えていた。
始めた時にはその意識は無かったが、記事を投稿し始めて数日、自分がpixivのような機能を期待していた事に気が付いたのだ。
例えば私がpixivに「俺が滝本竜彦を超えるLRO小説を書いてやるよ、綾波ぃぃー!」*1
と投稿したとする。
その場合、「エヴァンゲリオン」「綾波レイ」「LRO」といったタグを付けて投稿する。すると、「エヴァンゲリオン」でタグ検索した人が見てくれて、ブックマークや評価が付くなんて事があるかもしれない。
自分がぼんやりと想像していたはてなブログは、そういう世界だ。
対して実際のはてなブログはというと、まず自分でタグをつけて投稿することが出来ない。ブックマークしてくれた誰かがタグをつけたとしても、はてブのタグ検索のデフォルトは「3ブックマーク以上」だ。
つまり、pixivのような投稿型SNSのように使うのは相当ハードルが高い。
だからはてなブログは不便だ!と言っているのではない。
ブクマやスターというシステムがあるとしても、それは飽くまで付随物であってブログはブログ、はてなブログは投稿型SNSではないのだ。
そのあたり、どうも自分は履き違えていたらしい。今思えば物凄く恥ずかしいが、はてなブログを始めれば普通に3、4個はブックマークがつくと思っていたのだ。
なのでブックマーク「0」という表示を見て、少し落ち込んだりしていた。
どうせそんなに読んでる人いないんだから何書いたって大丈夫なんじゃないか、というツイッターが炎上するアホな大学生の如き心情にも陥りかけた。
そしてブログを始めて1週間、
ブクマ・スターは付けば物凄く嬉しいが、「ブログ」としてのメインをそこに捉えるとモチベーションが続かない、という事にようやく気付いた。
pixivなら、しょーもない内容で投稿しても10や20のブックマークがつくこともあるが、はてなとはそういう世界ではない。
コンスタントに質の高い記事を上げ続けられる人だけが、そういった「投稿型SNS世界」に近い使い方ができる。
(当人は単に「ブログ」として記事を上げ続けているだけなのかもしれないが)
という事で、今後は「ブログ」として、アクセスが少し増えたことを嬉しく思ったり、検索エンジンに引っかかるようになったのを喜んだり、
そちらを基本にはてなブログライフを楽しんでいこうと思う。*2
今は「エロゲ」というキーワードで来てくれた人がいるのを見て、ほっこりしている。