飲み会とはドラッグパーティーである―飲めない人にも勧めてくるその理由

お酒が苦手、もしくは飲めない人間なら、一度は飲み会の場で思ったことがあるかと思う。「なぜ、この人達は酒を飲ませようとするのか」と。

お酒を飲まないでいる事で、露骨に残念がられる・執拗に酒を勧められる、等の経験をすることは割と良くある事ではないだろうか。内心うんざりしているけれど、断れば場の雰囲気を崩してしまうとの思いから、飲みたくもないのに飲む。その内、言われる前から飲みたくもないお酒を注文し、自分から飲むようになる。

そうやって表面上は場に迎合するようになりながらも、内心ではこう思う。

「どうして放っておいてくれないのだろう」と。

 

今では気心の知れた友人と軽く飲むのは楽しいと思えるようになったが、以前の職場では、本当に苦痛でしかなかった。

何故、どうしてお酒が好きな人は他人にもそれを無理に勧めてくるのか?自分が酔って気持ちよくなっているだけでは駄目なのか?これがずっと疑問だったのだが、先日『謎の独立国家ソマリランド』を読んでいてこれは!と一気にその理由が分かった気がした。

 

『謎の独立国家ソマリランド』は「自称独立国家」というよく分からない異郷の地において、よくぞここまで!という位深く内情に切り込んでいるやたらめったら面白いノンフィクションなのだが、著者がそこまで切り込めたのには理由がある。当然著者自身の物怖じしない性格やバイタリティが前提としてあるのだが、それ以外にもう一つ、「カート宴会」が大きな役割を果たしている。

覚醒植物であるカートをソマリランドの人達と一緒に、バリバリむしゃむしゃ食べているのだ。

 体の芯が熱くなり、意識がすっと上に持ち上がるような感じがする。ソマリ人はこの多幸感を「メルカン」と呼ぶ。

(中略)

 なぜかわからないが、近くにいる人に、思いついたことをなんでもかんでも話しかけたくなる。言葉が通じないとか、こんなことを急に訊いたら相手が嫌な顔をするんじゃないかという、素面のときの躊躇が春の雪のように溶けてなくなる。相手のソマリ人たちもそうだから、あたかも国籍や民族や立場のちがいなどが一時的に消えてなくなるような錯覚に陥るのである。

「マ・メルカナイサー?(メルカンになってるか?」と訊かれ、

「ハー、ワン・メルカナヤー!!(ああ、メルカンだよ!!)と答えれば、みながどっと笑う。

謎の独立国家ソマリランド

謎の独立国家ソマリランド

 

 

この部分を読んでいて思った。これって飲み会じゃないか!と。

つまり飲み会とは「飲酒によって意識レベルを低下させ、その状態で話し合う(或いは単に騒ぐ)」ことを目的にしているドラッグパーティーのようなものなのか!と。

お互いに意識レベルを低下させ、コミュニケーションのハードルを下げる事が重要なため、お酒が飲めない相手にもやたらと薦めてくるのだ。

場に慣れた人から見れば「何でそんな今更当たり前の事を」と感じるかもしれないが、酔って楽しくなる、という感覚がいまいち分からない自分にとっては目からウロコなのだった。

 この「より原始的なものに置き換えて理解不能なものを理解する」方法は、結構いろんなものに応用できるのではないかと思う。

 例 地方のある会社内にて、若いパートの女性が中途で入ってきた24歳男性について一言 「なんか頼りなさそうじゃない?ってかあの年で車持ってないって時点でちょっとどーなの?って感じ」

→「隣町への距離が離れており、主な移動手段として馬が使われている村で、働き盛りの青年が馬を持っていない。それはどうなのか。頼りないように思える」

 

ちなみこれは実話で、これを聞いたときあまりの世界の違いにショックを受けた。

が、いちいちショックを受けているとキリがないので、こうして自分なりに考え、折り合いを付けていけたらと思う。

「ラーメンズファン問題」的自意識を描いたサリンジャーの名文 「フラニーとゾーイー」より

ラーメンズファン問題 - 指揮者だって人間だ  

あるある、とは思いつつも、ネットで広く情報収集できるようになった今となっては、

この手の優越感ゲーム的な物って昔ほど存在していないんじゃないかとも思ったりする。
ググればいくらでもとっかかりが見つかるのだから、「俺だけが知っている」も何もないというか。
ライブとか、そういった「現場」にはあるものなんだろうか。

 

とはいえ下に引用したような

「自分は個性的だ」と思っている事を含めて、自分もまた無個性な集団の中の一にしかすぎない、それに気付いて嫌になるという自意識はサブカル界隈に限らず普遍的なもので、あぁ分かるなぁとしみじみ思った。

自分では全くそんなつもりはなかったけれど、どうやら自分は大衆的な人気があるものを、カルトな良さがわかると勘違いしていたらしい。
ラーメンズが好きなことは全然個性的でもなんでもないらしい。
そしてそれを知ったことによりガッカリしているということは、どうやら自分は自分が個性的だと思っており、それがアドバンテージだと思っていたらしい。
そう考えると無性に恥ずかしくなるのです。

 

 これを読んで思い出したのが、サリンジャーの『フラニーとゾーイー』だ。

主人公の一人であるフラニーは、これに似た自意識をこじらせにこじらせている。
そのフラニーの語りがこちら。

「ウォーリーがどうっていうんじゃないの。女の子だっていいんだわ。かりに女の子だとするでしょ――たとえば、わたしの寮の誰かでもいいのよ。――そんな場合は、夏じゅう、どこかの劇場専属の劇団で背景を描いてたなんてことになるのよ。あるいは、ウェールズを自転車で駆けまわったとか。ニューヨークにアパートを借りて、雑誌社だとか広告会社のアルバイトをやったとか。要するに、誰も彼もなの。やることがみんな、とてもこう――何ていうかなあ――間違ってるっていうんじゃない。いやらしいっていうんでもないわ。馬鹿げてるっていうんでもないの、必ずしも。でも、なんだか、みみっちくて、つまんなくて――悲しくなっちゃう。そして、いちばんいけないことはね、かりにボヘミアンの真似をするとかなんとか、とんでもないことをするとするでしょ、そうすると、それがまた、種類が違うというだけで、型にはまってる点ではみんなとまったく同じことになってしまうのよ」

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

 

 この文章を思春期に読みたかった…ようなそうでもないような。

高校生ぐらいの時に読んでいたら、のたうちまわっていたと思う。

サブカルが趣味や知識を自意識の基にするのに対してこちらは行動が基になっているが、根っこは同じだろう。
ここでは他者への批判に近い形を取っているが、フラニーはこの手の自意識を自分もまた持っていることも理解しており、周囲のエゴも自分のエゴも、もう何もかも嫌で嫌でたまらない。ついには部屋に閉じこもってしまう。

 そんなフラニーを兄ゾーイーが、自らも同じ(あるいはより強い)自意識に苛まれていながらも、引き上げようとする。ひたすら語りかける。

 

難解で宗教的な語りもあり、良く分からなかった部分もあった。

だが二人の語り口を読んでいるだけで面白く、また単純に家族愛の話としても読める。

引用は野崎孝訳によったが、最近村上春樹訳も出版された。まだパラパラとしか読んでいないが、やや平易で読みやすくなっている。

 

最後に、「ラーメンズファン問題」とは少しずれるかもしれないが、こじらせた自意識の苦しみがよく伝わってくる一場面を紹介したい。
末のセリフは兄ゾーイーの言葉だ。

「あなたの言ってることなんか、全部わたしには分かってるのよ。わたしに話してることも、全部、これまでにわたしが一人で考えたことばかりだわ。あなたはわたしが『イエスの祈り』から何かを得ようとしてる――だからつまり、わたしもほかの人と同じように、あなたの言葉で言えば『欲張り』じゃないか。ほしがるものが、黒貂のコートだって、有名になることだって、へんな威信に輝くことだって、と、そう言うけど、そんなこと、みんなわたし知ってんのよ!いやんなっちゃうわ、わたしのことをどんな低能だと思ってるの?」彼女の声は、震えがだんだんひどくなって、言葉がどもるほどになった。
「分かったよ、楽にいこう、楽に」 

 

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 

 

「本屋さんも泣きました」―新潮文庫の100冊の「泣きましたPOP」乱発に突っ込みたい

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泣けるPOP

角川、集英、新潮と、書店で夏の文庫フェアが展開されるようになった。
昔からこの夏のフェアが好きで、特に「新潮文庫の100冊」はよく参考にしている。
今年の谷崎は『刺青』かーとか今年の吉村昭が『戦艦武蔵』なのはもしかして艦これの影響もあるのかとか、色々考えながら物色するのもまた楽しい、のだけれど一つだけ気になった。
100冊コーナーに置いてあるPOPが「泣きました」だらけなのだ。
(ちなみにここでいうPOPは書店お手製のものではなく出版社が配布しているものの事だ)

 

以下、泣きました一覧。

「本屋さんも泣きました」
恩田陸夜のピクニック

「最後の3ページ、涙がとまりません」
梨木香歩西の魔女が死んだ

「泣ける!けどR18」
窪美澄ふがいない僕は空を見た

「泣きながら一気に読みおえました」
角田光代『さがしもの』

「二度続けて読み、何度も泣かされました
桜木紫乃 『ラブレス』

「200万人が涙に暮れた
小川洋子博士の愛した数式

「何度読んでも泣けます」
湯本香樹実『夏の庭』

※ちなみに「泣き」の部分を抜き出しており、この後に細かな感想が続いているものもある POPの全体像は是非お近くの書店で!(覚えきれなかった)

正確に数えた訳ではないが、全体の半数近くのPOPが「泣ける」押しだったと思う。
冊子の方でも「泣ける本」という分類を作っているし、「泣ける」という文句に強い請求力があるのも分かる。
実際にはそんな事は書きたくない新潮社の社員が、泣きながら作ったPOPなのかもしれない。

 

が、流石にちょっと泣きすぎじゃね?

夏の庭、西の魔女は一応分からなくもないものの、夜のピクニックって泣ける小説だろうか。
素晴らしい青春小説には間違いないが、泣くような所があっただろうか?と首をかしげてしまった。博士の愛した数式も、どちらかと言うと余韻を静かに噛みしめたくなるような、自分にとってはそんな小説だ。
他の本は未読のためよく分からないが、
「泣ける!けどR18」というPOPを見た時には思わず心の中で「エロゲか!」と突っ込んでしまった。

 

「泣ける」を売りにする事の副作用

もちろん感じ方には個人差がある。ピクニックや博士で号泣したという人もいるかもしれない。
ただ個人的には過剰な「泣ける」押しには少し抵抗がある。
何故なら、読む人の目的が「泣くこと」になってしまいかねないからだ。
静かな感動を引き起こすような本来優れた小説でも、
読む人の感想が「あれ、何処が泣ける本なの?」となってしまう可能性がある。
泣くことが最終目的になってしまうと、本を読むことによって生まれる様々な心の機微が、「泣きの感動」の下位互換となってしまう。

 

昔、探偵ナイトスクープという番組で

「ハイレベルな料理人が作った卵豆腐をプリンだと言って食べさせたらどうなるか」
という企画があった。結果は口々に皆が「まずい」と口にしたのだった。
これは極端なたとえだが、目的の転換によって正しい評価が成されないというのは起こり得ることだと思う。

 

宣伝効果は高いのだろうが…

商業ベースで考えたときにはやっぱり「泣ける」の宣伝効果が大きいのだろうし、泣けるPOPの濫造をやめろ!とは言えない。
ただ少し、「泣ける」に惹かれて手に取る人の事を想うと、微妙な気分になる。

純然たる「劇薬エンタテインメント」―映画「渇き。」感想(ネタバレ無し)

映画「渇き。」を見てきた。感想ひとことで言うと、

「胸糞悪い映画なんだろうな、と期待して観に行ったら予想以上に胸糞悪くて胃もたれした」という感じだ。
この手の過激な映画には「グロいし悪趣味で最悪。娘には見せたくない ☆1つです」
のようなYAH○○映画レビューがつきものだったりする。
それに対する自分の反応は大抵ったく分かってねぇなぁという中二的上から目線なのだが、この映画に関してはそれもまぁ分からなくはないなと思った。

デヴィ夫人、映画『渇き。』鑑賞も共感できず「チンプンカンプン」 (デヴィ・スカルノ) ニュース-ORICON STYLE-

デヴィ夫人

この映画の目的とか、何を訴えたいのかわからない。チンプンカンプン

と言っているがこれはもっともで、おそらくこの映画にはそもそも(社会的な)目的だとか訴えたいものなど無いのだと思う。
予告編にある通りこの映画は「劇薬エンタテインメント」、純然たるエンタメ作品なのだ。

「ダンサーインザダーク」や「ファニーゲーム」等有名ないわゆる鬱映画のなかには、
過激描写の裏にテーマ性がある(少なくともそう取れる要素がある)ものが多い。
なので逆に、過激な暴力描写や衝撃的な展開があると、裏に社会的なメッセージがあるのではないかと勘繰ってしまう。
「渇き。」の予告編も、最近の役所広司のイメージや「家族を愛して何が悪い!」という叫びから、歪んだ形ではあっても「家族愛」をテーマにした作品と取る人がいてもおかしくない。
それを目当てにした観客と実際の内容のミスマッチから、「☆1つです」的感想が出るのも止む無しか、というのが上に書いたその手のレビューを書く心情が「分からなくもない」理由である。

一応誤解の無いよう書いておくと、この映画を批判している訳ではない。この映画に期待するものを間違えてはいけないという話だ。
この映画は「とんがったエンタメ」であって「とんがった社会派作品」ではない。
そんでもってとんがり具合を見誤ってはいけない。
自分の場合はどうだったかと言うと、
「とんがったエンタメ」を期待して観に行った、これは良し、ただしとんがり具合をびみょーに見誤った、という感じだ。

楽しめたか楽しめなかったかで言うと、間違いなく楽しめた。
各俳優陣の演技は素晴らしく、特に役所広司小松菜奈の主役二人が良い。
脅し、嬲り、怒鳴り、爽快なほど景気よく人を撥ね狂ったように笑う。そんな藤島を演ずる役所広司はもうクズそのもの。
冒頭の楽しげなクリスマスの背景に重なる役所広司の「クソがぁっ」も最高で、
星飛雄馬君のクリスマスパーティーに飽きた反クリスマス派の皆さんには、是非24日にこの冒頭部分を見てほしい。
小松菜奈も非常に蠱惑的に藤島加奈子というキャラクターを演じており、相手が狂っていると分かっても絡め捕られる、抗えない魅力を存分に発揮していた。

ティーン向け作品に登場するような、「透明で、風変りで、儚くて、どこか自殺願望が透けて見える」、そんなキャラクターを限りなく凶悪にするとこうなる、といった印象を受けた。

ドラッグパーティーのど派手な色彩にアイドルソングを合せるセンス、
目まぐるしい場面・時系列転換など、演出も含めて映画全体をジェットコースター的に楽しめた。
が、「心に闇」系と思いきやほとんどサイコパスとしか思えない加奈子のキャラクター、思っていた以上に「めちゃめちゃ」にされていた周囲等、想像よりエグイ描写の続くストーリーに疲弊してしまい、「楽しさ」と「疲れ」がトントンになってしまった。
冒頭に書いた通りやや胃もたれ気味、お腹一杯という感じである。
ただその分ギュッと詰まった作品であり、「劇薬エンタテインメント」がたまらなく好きな人なら決して損はしない映画である。

ひとつ気になるのが、藤島加奈子の本棚。
作中で引用される『不思議の国のアリス』の他に『ドリアン・グレイの肖像』があったのは分かったのだが、他には何が置いてあったのだろうか。
『ドリアン・グレイの肖像』は加奈子の破滅的なキャラクターに良くマッチしている。他もきっと考え抜かれたチョイスなのだろう。
確かめたいがもう一度見に行く気力が…気になる。

 

新装版 果てしなき渇き 上 (宝島社文庫)

新装版 果てしなき渇き 上 (宝島社文庫)

 

 

 

ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

 

 

「新潮文庫の100冊」は何処へ行くのか

去年から、新潮文庫の100冊がガラッとリニューアルされたのをご存じだろうか。

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これが従来の冊子。黄色の表紙に100%ORANGEデザインのキャラクター、Yonda君が描かれている。

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これが大幅にリニューアルされた去年の冊子。イメージカラーである黄色を止め、白背景に色とりどりの著名人が描かれている。
パッと見で誰なのか分かる人もいれば、分かりそうで分からない人もいる。松井がかっこいい。

 

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そしてこれが今年の冊子。がらりとイメージを変えた去年と比べ、従来のイメージに近いものとなった。イメージカラーの黄色も復活。
バーバパパやロコロコあたりを想起させるような軟体系キャラが、表紙をポップに彩っている。デザインは決して悪くない、むしろこの手の軟体系キャラが好きな自分にとってはかわいく思える。
だが正直な所、以前と同じような路線で行くのならYonda君を引退させた意味は一体…?とも思ってしまった。
去年の夏、冊子からYonda君が消え、寂しかった。あのパンダにはもう会えないのかと。
「中国にお帰りいただきました」という説明がまた切なさをさそう。

「中国にお帰りいただきました」新潮文庫のパンダ「Yonda?くん」解雇説の真相 - エキサイトニュース

それでも、去年の冊子を見てそれも止む無しかと引退を受け止める気持ちになった。  
本が売れない中、同じ事ばかりも繰り返していられないのだろう。
個人的好みはともかく、各著名人が好きな一冊&一行をチョイスする仕様は、間口を広げるアピール方法として間違っていないよう思えた。
新しい事にチャレンジする「新潮文庫の100冊」を応援しようと思った。
そのため、今年の冊子を見たときにはあれ?と拍子抜けしてしまった。
去年のものはいまいち反響が無かったのか?予算がなかったのか?予算に見合うほどの反響はなかったということか?
何かしら理由はあるのだろうが、パンダ好きとしては腑に落ちない。
マスコットキャラクター降板という決断に見合った、チャレンジングな企画を見てみたい。
新潮社の100冊、来年の企画を今から楽しみにしている。
…別に、パンダを中国から呼び戻してくれても全く構わないんですけどね…

「なんだろう…これが普通の日本の男性なんだ」―今週の探偵ナイトスクープが面白かったごく個人的な理由

6月27日、この放送で登場していたのは「食べるのが遅すぎる男」。

食べるのが非常に遅く、友人と回転ずしに行っても30分で5皿しか食べられないという。これから社会人になるにおいて困るので、これをどうにかしたいという依頼だ。

 

一日の食生活を円グラフで表していたのだが、これがすさまじい。
まずは朝食は7時半から9時の間。コーンフレークとパンという簡単なものに関わらず、1時間半もの時間をかけて食べている。
次にお昼はというと、15時半~17時半の間、2時間。夕食にいたってはなんと3時間、21時~24時に渡って食べ続けている。
澤部探偵に「満漢全席とか食ってんの?」と突っ込まれていたが、内容はからあげにめかぶスープ等、至って普通の食事だ。
一日の総食事時間は6時間半、円グラフ内の起きている時間のうち、三分の一を食事に費やしている。

こう書くとテレビに出たいが為に嘘をついているのでは?と思われそうだが、どうも依頼人はそういった雰囲気ではない。
見ていた人は分かると思うのだが、非常におっとりした雰囲気の真面目そうな青年で、なんというかガチなオーラが出ている。
番組ではその後医師(谷先生)が登場し、レモンを噛んで唾液を増やす、といった強引な方法も使いつつ(自然にできるまでの強制ギプスのようなものなのだろう)食べ方を指南していく。

笑い所もなければ泣き所もない、派手な見せ場もないなんとも地味ーな話であったが、私としてはこの手の依頼が好きだったりする。
個人的にナイトスクープの最も面白い部分のひとつは、こういう「理解の範疇外の人」が登場するところにあると思う。
理解の範疇外というと大げさだが、「世の中いろんな人がいるなぁ」と思えるのが良い。
過去の似たような依頼でいうと「缶ジュースがのめない」「うがいができない」などがあったが、どれも端から見ると滑稽で、わざとやってるのかとすら思える。
が、本人はそこそこ真剣に困っていたりする。

自分がごく当たり前に出来ることが他人にはそうではないかもしれない。
昔『妻を帽子と間違えた男』を読んで以来、特にこれを頭に留めて置こうと思ってはいるのだが、この手の決意はどうしたって忘れがちになる。
これを思い出させてくれる探偵ナイトスク―プという番組が私は好きだ。

最終的に依頼者は「30分で回転寿司10皿を完食する」という目標にチャレンジし、成功する。成功した依頼者の感想は「なんだろう…これが普通の日本の男性なんだ」だった。どことなく感慨深いコメントである。本当に、人は個々によって見える世界が違う。
自分にとってはごく当たり前に出来ることが出来ない、そんな相手に会った時どうするか。笑う、励ます、アドバイスする、スルーする、相手との関係や時と場合によって対応は変わってくるだろうが、出来ればイライラしたり、頭ごなしに否定したりはしたくないと思う。

ここまでえらそうに書いてしまったが、これはもちろん逆も然りで、他人には当たり前に出来て自分には出来ないことも多々ある。こういう考え方をするのは、自分が出来ないことを許してほしいという思いの裏返しなのかもしれない。
出来ることなら、「自分が出来ない事」を努力しながら、「自分が出来る事」を押し付けない人間になりたい。
いやまぁ、出来ることなら。とりあえず、そう思っておくだけ思っておこうと思う。

 

 

妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)