GReeeeNとはてなの間 ―加齢により感性が変化する事の恐怖 

穂村弘『本当はちがうんだ日記』所収のエッセイ「この世の大穴」にこんな話が載っていた。

三十代になってから、グリーンアスパラや韮や白菜が好きになり、四十代になってから葱が美味しく感じられるようになった。「名物」なんて概念は持っていなかったのに、旅行に行く前に「あそこの美味しいものは」と考えるようになった。
昔は第一印象で好き嫌いを決めていたのに、最近では付き合いの中で長所を見出すことも増えてきた。
他人を認められるようになって心から嬉しく思うものの、この道はどこへゆくのかと不安になる。

なんとなく、入賞しなかったパチンコの玉が、最後に同じ場所に吸い込まれるように、ひとつの大きな穴に向かってゆく所を想像する。 
 何一つ知らず、どんな考えも持たず、泣きながら産まれてきた自分の全てが、最後は世界の多様な豊かさという、「この世」の大穴に吸い込まれゆく。これは錯覚か、妄想か。
 学校を追い出されたり、神秘思想に近づいたり、めちゃくちゃだった筈のヘルマン・ヘッセが至った晩年の豊かな境地とは、この大穴とはちがうのだろうか。成熟後の赤毛のアンが手に入れた穏やかな幸福はどうか。
 新聞などで、焼身自殺者や、とんでもない事件を起こして全く反省なしに死刑になった者の記事をみて、心を動かされることがある。それは本人の考えや事の不幸などは別に、たとえそれがより悪い穴であっても、間違った穴であっても、とにかくその魂が最後の大穴だけには吸い込まれなかったという一点の印象に関わっているようだ。 

本当はちがうんだ日記 (集英社文庫)

本当はちがうんだ日記 (集英社文庫)

 

 それについてどう捉えるのかはともかく、年を経て好みが変わっていく、どちらかというと広くなっていく、というのはほとんどの人が経験することなのではないかと思う。

自分も今、これに直面している。食べ物の好みも、本や映画の好みも、全般的な考え方も、裾野を広げる方向で変わってきている。

ただ気になる事がある。上で引用したエッセイは、3・40代の話だ。
対して私は今25歳である。25歳のフリーター。本を読んで、映画を観て、スクフェスをやってニヤニヤしている。ニコニコ動画でアニメを見て、最近2話以降有料多すぎじゃね?とぼやいている。どうしてこうなった、どうしてこうなった…
というのは置いとくとして、「年をとって感覚が変わったな」と思うのに、25歳は早くないだろうか。

生クリームよりもあんこ派に傾きつつある。どら焼きを食べたときの多幸感といったら、脱法ドラッグの常習者に教えてやりたいぐらいである。
ネギもニラも白菜も美味しくてしかたがなく、苦手だった頃の感覚が思い出せない。
映画を観るとすぐ感動するようになった。たまこぉー!もちぞー!ってなる。

昔ピンと来なかった小説が面白く感じられる。『銀河ヒッチハイクガイド』の一体どこら辺が昔の自分にとって面白くなかったというのか。全く理解できない。
人に対しても、色々な物の考え方に関しても、割とおおらかになってきた。

25歳でこうなったのだから、これから更に感性は変わっていくのだろう。
穂村弘の言う「大きな穴」に、吸い込まれ続けていく。吸い込まれ続けて、その先には何があるのか。
ピンとくる幅が広がり続けて、最終的にGReeeeN的世界観に共感しだすのか?臆面もなく「絆」とか言い出すのか?
そんでもって「昔はこういうの嫌いだったけど、今は全然。前はなんであんなつっぱってたのか、全然思い出せない(笑)」とか言い出すのか?
それは嫌だ。さすがに嫌だ。

おおらかになりたいとは思っているが、思春期的な尖った部分も捨て去りたくはない。
ひねくれていたい。そうじゃ無ければはてなブログなんてやらない。アメブロとかライブドアとか使う。

はてなには、いくつになってもセンシティブな人がたくさんいる。心の在り方としてパンクである。ただそのセンシティブさがあまりに行き過ぎると、心を病んでしまうのだろうなと思う。

大きな穴、ブラックホールならぬGReeeeNホールに吸い込まれないように。病院や警察にもお世話にならないように。綱渡りをしながら生きていきたい。

そんな事を言いながら、いつかどこかに落ちていくのだろう。それは必ずしも不幸とは言えないが、今はまだ綱の上にいたい。