「ラーメンズファン問題」的自意識を描いたサリンジャーの名文 「フラニーとゾーイー」より

ラーメンズファン問題 - 指揮者だって人間だ  

あるある、とは思いつつも、ネットで広く情報収集できるようになった今となっては、

この手の優越感ゲーム的な物って昔ほど存在していないんじゃないかとも思ったりする。
ググればいくらでもとっかかりが見つかるのだから、「俺だけが知っている」も何もないというか。
ライブとか、そういった「現場」にはあるものなんだろうか。

 

とはいえ下に引用したような

「自分は個性的だ」と思っている事を含めて、自分もまた無個性な集団の中の一にしかすぎない、それに気付いて嫌になるという自意識はサブカル界隈に限らず普遍的なもので、あぁ分かるなぁとしみじみ思った。

自分では全くそんなつもりはなかったけれど、どうやら自分は大衆的な人気があるものを、カルトな良さがわかると勘違いしていたらしい。
ラーメンズが好きなことは全然個性的でもなんでもないらしい。
そしてそれを知ったことによりガッカリしているということは、どうやら自分は自分が個性的だと思っており、それがアドバンテージだと思っていたらしい。
そう考えると無性に恥ずかしくなるのです。

 

 これを読んで思い出したのが、サリンジャーの『フラニーとゾーイー』だ。

主人公の一人であるフラニーは、これに似た自意識をこじらせにこじらせている。
そのフラニーの語りがこちら。

「ウォーリーがどうっていうんじゃないの。女の子だっていいんだわ。かりに女の子だとするでしょ――たとえば、わたしの寮の誰かでもいいのよ。――そんな場合は、夏じゅう、どこかの劇場専属の劇団で背景を描いてたなんてことになるのよ。あるいは、ウェールズを自転車で駆けまわったとか。ニューヨークにアパートを借りて、雑誌社だとか広告会社のアルバイトをやったとか。要するに、誰も彼もなの。やることがみんな、とてもこう――何ていうかなあ――間違ってるっていうんじゃない。いやらしいっていうんでもないわ。馬鹿げてるっていうんでもないの、必ずしも。でも、なんだか、みみっちくて、つまんなくて――悲しくなっちゃう。そして、いちばんいけないことはね、かりにボヘミアンの真似をするとかなんとか、とんでもないことをするとするでしょ、そうすると、それがまた、種類が違うというだけで、型にはまってる点ではみんなとまったく同じことになってしまうのよ」

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

 

 この文章を思春期に読みたかった…ようなそうでもないような。

高校生ぐらいの時に読んでいたら、のたうちまわっていたと思う。

サブカルが趣味や知識を自意識の基にするのに対してこちらは行動が基になっているが、根っこは同じだろう。
ここでは他者への批判に近い形を取っているが、フラニーはこの手の自意識を自分もまた持っていることも理解しており、周囲のエゴも自分のエゴも、もう何もかも嫌で嫌でたまらない。ついには部屋に閉じこもってしまう。

 そんなフラニーを兄ゾーイーが、自らも同じ(あるいはより強い)自意識に苛まれていながらも、引き上げようとする。ひたすら語りかける。

 

難解で宗教的な語りもあり、良く分からなかった部分もあった。

だが二人の語り口を読んでいるだけで面白く、また単純に家族愛の話としても読める。

引用は野崎孝訳によったが、最近村上春樹訳も出版された。まだパラパラとしか読んでいないが、やや平易で読みやすくなっている。

 

最後に、「ラーメンズファン問題」とは少しずれるかもしれないが、こじらせた自意識の苦しみがよく伝わってくる一場面を紹介したい。
末のセリフは兄ゾーイーの言葉だ。

「あなたの言ってることなんか、全部わたしには分かってるのよ。わたしに話してることも、全部、これまでにわたしが一人で考えたことばかりだわ。あなたはわたしが『イエスの祈り』から何かを得ようとしてる――だからつまり、わたしもほかの人と同じように、あなたの言葉で言えば『欲張り』じゃないか。ほしがるものが、黒貂のコートだって、有名になることだって、へんな威信に輝くことだって、と、そう言うけど、そんなこと、みんなわたし知ってんのよ!いやんなっちゃうわ、わたしのことをどんな低能だと思ってるの?」彼女の声は、震えがだんだんひどくなって、言葉がどもるほどになった。
「分かったよ、楽にいこう、楽に」 

 

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)