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エヴァだの滝本竜彦だのに共感して人生詰んだ いつまでも「気持ち悪い」とか言うのやめろよ


現実に帰れない

Neon Gen Evangelion: End of Evangelion [DVD] [Import]

 自分みたいな気持ち悪いクズは死んだ方がいいと、ずっと思っていた。

私の好きな作品は、やたらとラストで「現実に帰れ」と促して来る。というか自分が「現実に帰れ」という作品が好きなのだろう。
アニメだとご存じエヴァ旧劇場版(EOE)。ゲームだと『〇〇〇〇』とか。コンティニューしちゃダメなのかよ!
『NHKへようこそ!』(原作)も好きで、ラストは「現実社会の中でなんとか生きて行こうぜ」というメッセージと受け取った。
が、それらの作品を受け取って自分が変われたかというと、ひとっつも変わらなかった。1ミリも。
というか悪化した。「現実社会の中できちんと生きていく」という目標を強く掲げたその反面、大学はしょっちゅうサボっていた。行けなかった。
理想と乖離した現実に、自分はクズだ、ダメ人間だ、死んだ方がいい、という意識は増々強くなっていった。

 

「クソでクズな自分」が現実に立ち向かうことの限界

超人計画 (角川文庫)

こんなクソでクズな自分は死んでしまえばいい、とか考えてちゃダメじゃね?ヤバくね?
と気付いたのは思春期をとっくに過ぎた頃だった。遅い。超遅い。
ヤバくね?と気付いたきっかけは滝本竜彦の『超人計画』。
あまりに強烈な自意識のこじらせっぷりに「こいつぁやべぇ…」と眩暈がした。
自分も自意識をこじらせているが、この人は自分の100倍こじらせている。しかも何故かいきなり「超人」を目指している。
ダメ人間から真人間になるという過程をすっとばしているのか、それともこの人にとってまっとうに生きるというのは「超人」になるに等しいのか。
滝本竜彦はもがいている。超人になろうとひたすらもがいている。その結果はどうだったのか。
私が読んだのは文庫版だったため、その後について書かれたあとがきがついていた。当然読んだ。
……なんというか、その後も滝本竜彦にとっても世界は非常に生き辛いもののようだった。
この辺でうっすら気付く。自己否定から入って現実に立ち向かおうしても、結局上手くはいかないのではないか、と。

 

精神論より方法論

めざせ!ポジティブADHD


もう一つの転機が、ADHDという概念を知った事だった。
何気なくつけていたNHKで、「きらっといきる」という番組をやっていた。障害について取り扱った番組で、その回のテーマはADHD
ADHDの女性が自分の障害(極端に頻発する物忘れやケアレスミス)を話し、更にそれについての具体的な対策を紹介していた。*1
それを見てあまりに自分そのものな症状に驚くとともに、その女性の言葉に目からウロコが落ちた。
彼女はこう言った。「精神論より方法論」だと。
自分はダメだクズだと悩んでも、何一つ改善されない。この言葉を聞くまで、私はそんな単純な事実にさえ気づかなかった。アホである。
自分がどういう方向で駄目なのか、どういう性質を持っているのか。それを「批判抜き」で考え、それに合った対策を考える。
どうやらそうした方が自分は産廃だと考えるよりも100倍マシらしいと、この辺でようやく気付く。

病院に行った結果ADHDではないと言われたが、自分がADHD的気質であると知った事で、少しだけ現実に立ち向かいやすくなった。「脳波に微細な異常があったけど気にする必要はない」とかいう気になる事を言われたけど。

幸いADHDには対策本も多く出ており、先人の知恵も借りられる。これらは自分がどう駄目なのか、弱点を知るための大きな指針になった。

 

認知行動療法

はじめての認知療法 (講談社現代新書)

また、認知行動療法認知療法)の本も役に立った。
エヴァだとか滝本竜彦だとかが好きな奴(私)は、一種のネガティブ中毒に陥っていたりする。
ネガティブに考える事も含めて自分のアイデンティティだと考えているため、ネガティブ思考が自分にとって毒になると分かっていてもやめられないのだ。
そんな奴に「ポジティブになろうよ、君はそこにいてもいいんだ、おめでとう!」なんて本を渡したって壁に投げつけるだけで、何の役にも立たない。
その点認知行動療法は自分の認識を客観的に見て捉えなおすものなので、ネガティブ民にも受け入れやすい。
中二病的メンタルとネガティブさが結びつくと、「ポジティブ思考って要するに何も考えてないんじゃないか?」というような思想に陥りがちだ。が、ネガティブ思考も大概不合理である。自動的にネガティブな発想をしてるだけであんまりよく考えてない。それに気付けた。

それでもやっぱりどうしてもネガティブ寄りになってしまうけれど、その辺はもう諦めた。いつだって客観的で中立な思考が出来る人間なんていないんだよ!(逆ギレ)


エヴァからヱヴァへ

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 式波・アスカ・ラングレー ジャージVer. (1/7スケール PVC製塗装済完成品)

※ちなみに全てアフィリエイトではないです

今でもエヴァが好きだ。特に旧劇。何回見てもぼろ泣きする。ちょっとどうかと思う。
そしてアスカが好きだ。「でも自分が一番イヤ!」というアスカを抱きしめたくなるのは多分自分自身を抱きしめたいからだ。
でもヱヴァも好きだ。Qだって好きだ。式波は空の浴槽に入ったりしない。リツコはゲンドウを捨てた。ミサトは父の仇がどうとか言ってられなくなった。
そうせざるを得なくなったという悲しさはあるが、なんにしてもみんなメンタルのヘルスを患っていない。(※TVシリーズ比)
渚カヲルすら「生と死は等価値」とか言わなくなった。シンジさんもあんまり内省的じゃなくなった。*2
私も自分なんて死ねばいいと思うのをやめた。そして今は何をしているかというと、それは、その、フリーターである。


結局現実には向き合いきれていない。ただ、生きるのは物凄く楽になった。それと若年性アルツハイマーではないかと疑う程酷かった物忘れが何故か改善された。
少し長い文章になってしまったが、言いたい事はひとつ、自分の事を「気持ち悪い」なんて思ったっていい事ないよ。それだけだ。

 

 

*1:慌てない慌てない一休み♪フロンティア★ADHD こちらのサイトを運営している「あーさ」氏が出演されていた

*2:なんだかんだQはシンジさんだよねあんま内省的じゃないよねという感想記事があって面白かったのだが探しても見つからず…

男子小学生はアゲハ蝶の夢を見るか

バイト先に、占いやパワースポットが好きな後輩男子がいる。
国立大に通う理系の学生で、おっとりとした優しい雰囲気の20歳だ。
以前占い系の話を聞いた時に「〇〇さん、こういうの詳しいですよね」と何気なく言ったところ、「すみません気持ち悪いですよね」と萎縮したように言われてしまった。
以前も冗談交じりに「男でこういうの好きってアレですよね」というような事を言っていた事があり、少し引け目を感じているらしい。
占いの世界は良く分からないが、知らないジャンルの話を聞くのは面白いし、趣味に男も女も無い。男が占いにハマっていても、女がボディビルに打ち込んでいても、まぁなんでもいいと思う。当然「気持ち悪い」に対しては否定した。

このことについてなんとなく母について話した時、以下のような話を聞いた。

母が以前勤めていた所では、夏休みに昆虫のカードを配っていたそうだ。そこではカブト、クワガタ、アゲハ蝶の3種類を配っていて、それを子供に選んでもらう。
その時、アゲハを選ぶ男の子が結構いるのだそうだ。

「これ」。男の子はアゲハを指さす。だがそれを見ると、大抵の親は嫌な顔をするらしい。「カブトでしょ?」「こっちにしたらどうだ?」と、カードを変えさせる事もよくある。

そして10人に1人程、アゲハをもらって喜ぶ男の子に「良かったね」と笑顔で接する親がいるのだそうだ。

もちろんこれは母の目に映ったものであり、バイアスがかかっている可能性は十分あると思う。だがたとえ少数でも、「カブトでしょ?」と自分の好きなものを曲げられる子がいるのだとしたら、憂鬱な気分になる。
これはほんの些細な事だ。だがその些細な事が積み重なって、少しずつ少しずつ、矯正させられていくのではないだろうか。

今現在、女の子らしさの押し付けに抵抗を覚える人は多いと思う。ディズニープリンセスだって安易に王子様とはキスしない時代だ。(もちろん今でも押し付けに傷つく子だっているだろうけど)
だが男の子らしさの押し付けは、それに比べてどうか。
ネットやフェミニズムに関する学術的な場では、きっと大いに議論されてはいるのだろう。だがそれが私の住むような地方都市にまで届いているかというと、全っ然そんな事はないと思うのだ。

バイト先の後輩は本当におっとりとしており、彼のようなタイプが声を上げる事は想像しづらい。だが内心ひっそりと、微かな引け目を感じている人や、子供の頃の性質を曲げられてしまった人はたくさんいるのではないか。
じゃあ自分はどうするのか?と考えるとまぁ何もしないのだが、万が一自分に子供が出来た時、「カブト」を押し付けるような親にはなりたくないと思う。

「エロゲ」という媒体の持つ良さ

長い

エロゲが好きだ。凄く好きだ。が、数をこなしているかというと全くそんな事はない。
むしろ年一本くらいしかやらない。長いから。
全クリに50時間とか社会人舐めてんの?18歳以上しか出来ないんだよね?二ート向けなの?それとも文系大学生という選ばれしモラトリアマーのために作ってるの?何なの?
…と思うのだが、その「長さ」こそがエロゲ―だけにしかない魅力だと思うのだ。
ぎゅっと詰まった、短くて濃いエロゲも多々あるのは承知している。が、とりあえずそれは置いといて、ここでは「長いエロゲ」の良さについて書きたい。

このエントリを書くきっかけになったのが、以下の増田だ。

最近の「泣けるエロゲー」で久々に泣いてみたい

この増田内の以下の文章に「すげー分かる!」と頷いてしまったのだ。

日常描写を蓄積していって、そこからの落差で泣かせるというそのベタベタであざとい展開でありながら、ものすごく労力をかけて丁寧に丁寧に作られていてその世界を愛してしまうがゆえに、その瞬間が予測可能回避不可能なみたいな泣きゲー体験をまた味わいたいよ―ーあびゃああああああ!

そう、長いエロゲーの特徴として、物凄く丁寧に日常描写を積み上げていく、というのがあるのだ。丁寧すぎてむしろだるい、これいるか?と思いつつ、なんだかんだでその世界に愛着が沸いていく。
ひたすら描かれる「その世界の日常」に惹かれ、そしてある時それが急に反転するこのカタルシスたるや、他のメディアではなかなか味わえない。
エロはないが「ひぐらしのなく頃に」はこれを自覚的に、極端なまでに利用した作品だったと思う。

この「だるい程に日常描写を延々積み重ねた後に一気に崩す」というこの構成、エロゲ*1以外ではやり辛いと思うのだ。この「延々」というのは並の延々ではない。下手をすると6時間以上、延々と続くのだ。アニメ1クール分である。
漫画やアニメ等でもこれは出来ないことではない。が、非常にリスキーだ。それをエロゲはさらりとやってのけてしまう。
良くも悪くも、好きなだけシナリオを詰め込める。そこは10週打ち切りだのスポンサーの意向だのとは無縁の世界だ。*2

 近い

主人公目線、ファーストパーソンで話は進み、「PCと自分」という物理的に近い距離によって、目の前はエロゲーで埋め尽くされる。
いつしかその世界に入り込み、読み込み時の暗闇にはうつろな目のキモオタが映る。エロゲーマーズハイとなり、昼夜も飲食も忘れマウスをクリックしつづける。
この没入感もまた、起承転結における「転」の部分の衝撃を高める。起起起起起承転う゛あああああああああみたいな。
その後の「結」にあるのが救いか否かで、いわゆる「泣きゲー」か「鬱ゲー」かに分かれていくのだろう。この没入感故に、救いの無い話もまた非常に親和性が高い。

この「やたらと長い導入部」と「一人称視点」による没入感、それに絵・音楽・声・演出が合わさり、エロゲにしかないプレイ体験を味わわせてくれる。


それにしても絶対にダメージを受けるのに、「鬱ゲー」が気になってしまうのはなんでなんだろう。
上で挙げた増田で触れられていた「フラテルニテ」が気になって気になって仕方がない。絶対後悔するのに…悔しい、体験版ダウンロードしちゃう。
あとこれ読み直して思ったけどこれ全然エロゲ全般の話じゃないよね。長いエロゲがみんな長々と日常描いてる訳でもなし。まぁこういうつくりの作品も出来るのがエロゲの良さ、って事で。

 

君が望む永遠 ~Rumbling hearts~(限定版)

君が望む永遠 ~Rumbling hearts~(限定版)

 

 

↑PCの方を貼ろうと思ったらAmazon商品紹介からの検索にかからなかった。

18禁は貼れなかったりするんだろうか?

*1:別に全年齢向けでもいいが

*2:同人でない限り納期なりしがらみなり色々ありはするだろうけど

百合だけど、百合じゃなかった!―ぼっち目線で見る「思い出のマーニー」感想(ネタバレ有)

「あなたが好きよ、マーニー!」というCMに釣られ、今更ながら思い出のマーニーを観に行ってきた。完全に鈴木Pの策略に踊らされている。

ジブリ最新作の大胆すぎるボツコピー 鈴木敏夫氏が明かす 〈dot.〉|dot.ドット 朝日新聞出版

なんだよ「ふたりだけのいけないこと」って。釣られてやったよこんちくしょう。

で、釣られた結果どうだったかというとタイトル通り、百合だけど百合じゃなかった。
場面場面で見ると、素晴らしく百合百合しい。手を添え、密着しながら教えるボート漕ぎ。手を取り合い、星空の下二人で踊るダンス。誰にも言ってはいけない、二人だけの秘密の世界。
そして「愛しているわ」「あなたが好きよ」「大好き!」という応酬。(「女の子の中で一番」「今まであった人の中で一番」という言い回しのズレはあるが)
いやこれ全く狙ってなかったら嘘だろうと思うのだが、そこはジブリ、やはり「百合」では終わらない。そりゃあね、ジブリがガチ百合はやらんよね。おばあちゃんかい!っていうね。
だが釣られた事に後悔しているかというと、全くそんな事はない。
杏奈にとってマーニーとの思い出は、ひと夏の百合イベントでは無かったのだ。それは愛されていたあの頃の記憶の追体験であり、愛してくれた人に再び愛された思い出だった。
自己肯定感にちょっぴり問題があるぼっちメンにとって、これはもうグッとこざるをえないよね。正直泣いた。

ただこの映画、すごく分かりづらい。難解で高尚だとかそういったベクトルではなくて、登場人物の感情の動きが読み取り辛いのだ。
個人的には自分自身ぼっち気質という事もあり、きっとこうなんだろう、うんうん分かるぞ、と勝手に感情移入して脳内補完しながら観るのがまた楽しかった。
が、これは単純に欠点と言われても仕方がないのではないかと思う。


話は変わるが、色々言われている「マーニー=金髪美少女(外国人)としたのは正解だったのか否か」について少し書きたい。個人的にこれ、正解だったと思うのだ。
なぜなら「どうして杏奈が一瞬でマーニーに心を許したのか?」という事の理由になっているからだ。コミュニケーションが苦手で、自分に立ち入られる事を拒む杏奈。その杏奈が何故マーニーには気を許したのか。
ふとっちょ豚な委員長と違って可愛かったから…ではもちろんなくて、一目で「輪の外側」にいる人間だと分かったからではないだろうか。*1

冒頭、杏奈は自分を「輪の外側」にいる人間だと話す。それはもちろん疎外感、孤独感の表現なのだろうが、そこにはある種の優越感も感じられる。
割と「ぼっち」あるあるだと思うのだが、輪の中をうらやみながらもちょっと見下してるあの感じ。あー…古傷がうずく…

で、そんなメンタリティの主人公の元に誰も住んでいないはずのお屋敷から、幻想的な雰囲気漂う白皙の美少女が現れたわけだ。
明らかに「輪の内側」にいるような普通の子じゃない。しかも何故か最初から自分に対して好感度高め。こりゃあもう惹かれないはずがないよねっていう。
杏奈は「自分が嫌い」と言いながらも、自分を特別視しているような所がある。その杏奈にとって、相手が「異質である」という事が惹かれる要素として重要なのだと思う。*2
また、いかにも「幻想の中の女の子」という雰囲気を出しておきながら、実は自分と地続きの存在だった!という意外性が個人的には話の構成として面白かった。


この作品で凄く良かったのが、「太っちょぶた」と言ったことにちゃんと謝ったこと。
「いや普通じゃね?」と言われそうだが、こういうタイプのキャラクターをただ敵視したまま終わる作品は結構多い。「消えて」みたいに突っぱねたりとか、コップの水をかけたりとか。そんでもってマーニーのような「輪の外側」の存在と出会い、二人きりの君と僕ワールドが形成されていく。それだけ。
そういう作品も嫌いじゃない、嫌いじゃないけれど現実にはそうはいかない。
現実には委員長のようなタイプとも付き合っていかなくてはいけないし、輪の外の存在ときゃっきゃウフフのまま閉じた世界に籠もれるはずもない。
だから、「太っちょぶた」と言ったらちゃんとごめんなさいしなきゃいけない。
それに何より、当たり前だが相手だって傷つくのだ。以前見たアニメに「ナイーブな奴って人のナイーブさには鈍感なんだよな」というセリフがあってグサッときたのだが、*3中盤までにおいて杏奈はまさしくこの「ナイーブな奴」だった。

「太っちょ豚」と言った自分を嫌いだと言ってはいるが、結局はそこでは「そんな事を言う自分が嫌」という自分の事しか考えていない。
そんなナイーブさから脱して、相手を想って謝れるようになった。物語の中においてちゃんと杏奈が社会性を獲得している。そこにグッときた。

 

最後にもう一つ良かったのが、「一度も電話かけてこなかったわね」と、母親の成長もさらっと描かれていたことだ。
厄介払いという杏奈の見方は間違ってはいる。だが実際療養だけでなく、自分と杏奈を引き離すことも目的だったのだろう。子が成長するだけでは、親子関係はなかなか上手くいかない。そこで母親の成長もさせているというこの行き届きっぷりが良い。

人によってはこの辺りも含め上手くいきすぎている、理想的すぎると感じるかもしれない。だが私は「自分以外の人間を受け入れる」という事の希望に満ちたこの作品が、とても好きだ。過去にぼっちだった人間として、そして未だその気質を引きずる人間として、あのラストを肯定したいのだ。
あんな風にできたらいいよな、という憧れなのかもしれない。…杏奈だけに。

 

思い出のマーニー (ロマンアルバム)

思い出のマーニー (ロマンアルバム)

 

 

*1:「前にも会った気がする」的なセリフが確かあったと思うので、記憶の残滓みたいなものも影響しているのだとは思う

*2:原作は読んでいないので、原作でどう惹かれているのかは知らない。ただ飽くまで映画から読み取れる情報からの解釈として、この点にマーニーのビジュアル上の意義を感じた

*3:『銀河機攻隊 マジェスティックプリンス』4話より

ブログに自分の年齢を書くのはやめて下さい 特に25歳の人はやめて下さい

私は現在25歳、今年で26歳である。そして未だフリーターだ。
別に夢を追いかけている訳ではない。ただ単に乗るしかなかったビッグウェーブ、就職活動に乗り損ねたというだけの話だ。
そして25歳という人生の中でも大事な時期にはてなブログを書くという暴挙に出ている訳だが、ここ最近気になる事がある。
他の人のブログを見ていると、「25歳」と称する人が結構多いのだ。自分と同い年、あるいは数えで1つ下。あそことか、あそことか…

人のブログを読むときに、「こんな文章書けたらな」と思う事がある。だが普段、それは大して切迫した感情ではない。
人のブログは人のブログ、自分のブログは自分のブログ。自分のブログというホームで書いている限り、その中で駄文を量産してもさほど気にしない。いくら他のブログが名文を書いていようが、それは読者として好ましいというだけの事だ。
だがそこに「25歳」という文字が登場したとき、話は一変する。
25、その悪魔の数字が目に入った途端、一気に相手と自分を同じリングに上げてしまう。ファイッ!という掛け声が聞こえ、一瞬の内に打ち抜かれる自分が見える。
やめてよ、25って書くんならそんな充実した毎日を書くのはやめてよ。やめてよ、25って書くんならそんな中身のある記事を書くのはやめてよ。          

「人は人、自分は自分」。日々忘れないよう心掛けているのだが、「同じ年」というただその一点が、信念を打ち砕く。
有名人やスポーツ選手などでもそうだ。同じ年月を重ねて来たにも関わらず、ついてしまった絶望的な差。そもそも比べること自体がおこがましいのだが、つい考えてしまう。
そうか、マー君同い年か…と。

高すぎる理想は挫折を生むだけで、自分を成長させはしない。他人と比べるより過去の自分と比べた方が良い。
分かっちゃいる、分かっちゃいるけどやめられない。あぁ、あの人も25だよ…

 

『情熱大陸』800回記念 ぼくらは、1988年生まれ

『情熱大陸』800回記念 ぼくらは、1988年生まれ

 

 

誰も知らない

先日、はてなブログに関する新発見があった。
それは「自分のアクセスはアクセス数にカウントされない」という事だ。

深夜2時。帰宅後何気なく見たアクセス解析を見たところ、そこに「0」という数字があって驚いた。
この時間帯だと「1」の事が多く、これは私だなぁと思っていたがそうではないらしい。
何度見ても「0」。清々しい数字だ。今ならバイト先の冷蔵庫に頭を突っ込んだ写真をアップしてもお咎めなしで済むのではないかという気がしてくる。

思うに、誰も見ないブログというのは割合炎上しにくいのではないだろうか。ツイッターのようにリアルタイム検索には引っかからないし、むやみやたらと1000字だの2000字だのと文字数が多いので、炎上ツイートのようなキャッチ―さに欠ける。
「私の人生論」という題名をつけて1万字くらい自分語りした中に、ちょろっと「冷蔵庫入りました」と書いておけば炎上しないんじゃないか?
まぁそうやって調子に乗っていると目ざとい誰かしらがやってくるのがインターネットである。せいぜい自宅の冷蔵庫に顔を突っ込むことにしよう。          

ふと思ったのだが、「誰も見ない」事を目的としたホームページが、何処かにあったりはしないのだろうか。徹底的に逆SEO対策を行い、誰も検索してこないようなワードを用いて文章を構築する。
話題のトピックスには触れないように、間違っても妖怪だとかウォッチだとか書かないように、型抜きのごとく精密に記事を形作っていく。
そして毎日アクセス数が「0」である事を確認し、ひとりほくそ笑むのだ。
そんな事をして一体誰が得をするのか言われそうだが、広大なネットの中、もしかするとそんなサイトがあるのではないだろうか?
もしあなたが存在の価値すら疑うような、一片の興味も持てないサイトに迷いこんだとしたら、そこは彼/彼女の聖域だったのかもしれない。職人の技破れたり。

そう、お察しの通り当ブログはアクセス数0を目指し日々興味を持たれない話題を模索している。そしてようやくその悲願を達成したのだ。これで私も職人の仲間入りだ…願わくばこの記事が誰にも読まれませんように。
というような事はもちろんなくて、こんなどうでもいい妄想記事を書いてしまう位にはアクセス数「0」にへこんでいる。

だが前向きに考えると、「自分のアクセス数はカウントされない」という事実は朗報である。更新した日のアクセス数「15」はほぼ自分のアクセスかと思っていたが、実際に来てくれた人がいたのだ。
役に立つライフハックもない、冷蔵庫に頭を突っ込みもしないブログに来てくれる人がいる。有難いことである。

「就職難!!ゾンビ取りガール」はパクられたのか?

テレ東の新ドラマは「ゾンビ取りガール」のパクリ?

発端はこちら。

「福満しげゆき」先生の漫画「ゾンビ取りガール」が無断でドラマ化された可能性について - Togetterまとめ


10月スタート予定のテレ東ドラマ『玉川区役所 OF THE DEAD』の設定が、福満しげゆきの『就職難!!ゾンビ取りガール』に酷似しているというのだ。以下はそのあらすじ。

ドラマはゾンビの存在が日常化した世界を舞台に繰り広げられるちょっとゆるいヒューマンコメディー。ゾンビ対策と捕獲を担当する玉川区役所特別福祉課に勤める主人公・赤羽晋助(林さん)は25年間、彼女もおらずパッとしない毎日を送っていた。しかし、ある日アイドル並みのルックスだが“超武闘派”の美少女が新人として配属されてきて……というストーリー。

林遣都:公務員のゾンビハンターに 「ドラマ24」で10月から - MANTANWEB(まんたんウェブ) より


…確かに主人公が公務員という事以外ほとんどが被っている。話題になるのも分かる。

 

一つ一つの設定は、割とよくある

ただこれ、一つ一つの要素を見ていくと、ゾンビものでは結構よくあるものなのだ。

その①ゾンビを倒すのではなく捕獲する
ヘッドショットでハイさよならではなく、捕獲して共存するというアイディア。
これはロメロが『サバイバルオブザデッド』で描いている。
島の中で暮らす一族が「ゾンビを殺すべきでない」という考えの持ち主で、牧場でゾンビを繋いで飼っている。
コミックス『ウォーキング・デッド』及びそれをドラマ化したシーズン2でも、ゾンビを殺さず牧場の納屋に閉じ込めておくというシチュエーションがある。
多分コミックスが「サバイバル」より少し先。内容は別物。どちらも共存は失敗している。
捕獲後を描いたものとして、『ショーン』のラストや『ゾンビ―ノ』もある。他にも多分探せばあるだろう。

ちなみにゾンビ取りガールの元となった短編『日本のアルバイト』の初出は2003年。あの『ウォーキング・デッド』よりも、ロメロよりも先である。
ロメロが福満しげゆきを参考にした可能性も存在す…しないか。

その②主人公が非モテ
ゾンビものが好きな人にはもはや説明不用かと思われるが、「ゾンビ」と「非モテ」は非常に相性が良い。
映画だと『ショーン』『ゾンビランド』『チキンオブ~』等、コメディ系映画に冴えない主人公がよく配置される。漫画だと『アイアムアヒーロー』『女ンビ』『Z』(の一部)『ライフイズデッド』あたり。あれも非モテこれも非モテ
ゾンビものの主人公=非モテはもはやスタンダードと言っていいだろう。

その③ルックスが良く超武闘派のヒロイン
プラネット・テラー 』や『バイオハザード』など。自分で挙げておきながらイマイチピンとこない例である。
上の例より、『キックアス』や『トランスフォーマー』のような、非モテ主人公×アッパー系ヒロインという近年の類型の一つとして捉えた方が良いかもしれない。


パクりパクられゾンビワールド

しかし一つ一つの設定はよくあるとはいえ、ここまで重なるとちょっと厳しいのでは?と思い、ブコメにもそのように書いた。

id:gomahaze ゾンビを殺す(?)のではなく捕まえて共存するみたいなアイディアは他にもちょいちょいある。主人公=非モテは現在のゾンビ作品のスタンダード。でもなーちょっとこれは厳しいかなぁ。

アイディアが偶然被った可能性はなくはない。だけど「ゾンビもの」を制作するにおいて、企画段階で誰か突っ込まなかったんだろうかとも思った。

 

しかし後にこちらのコメントを見て、自分の安易なコメントを反省した。

id:zg4649 これがアウトなら、福満しげゆきがどうこうの前に、世のゾンビものはすべからくジョージAロメロの設定をパクっていることになりますよ。

http://b.hatena.ne.jp/entry/217112241/comment/gomahaze

 

そう、ほとんどのゾンビものはロメロの設定を引用しているのだ。そしてロメロ以後も、革新的なアイディアは他のゾンビ作品に伝播してきた。
ゾンビが全力疾走すれば他も走り出す。メタ的なコメディゾンビ映画が登場すれば、他も追随する。
そうしてゾンビものはここまで来た。

id:crapman ゾンビ女子高生に恋する漫画があったり、ウォームボーディーズもそうだし、ゾンビーノの緩い世界とか、アイアムア〜の半ゾンビ女子高生だとか、ゾンビはある程度被るしパクられてる。いいか悪いか別として

http://b.hatena.ne.jp/entry/217112241/comment/crapman

こちらもその通りだと思う。

なんというかゾンビものはネタ被り上等みたいな所がある。 根本設定をロメロから借りているゾンビ作品において、一番重要なものは設定ではない。その中身だ。

 

余談だが、あの『サンゲリア』も、『ゾンビ』をプロデュースしたダリオ・アルジェントからパクリだと抗議された事がある。以下は『ゾンビ映画大辞典』からの引用。

アルジェントに言わせれば、『サンゲリア』は『ゾンビ』のパクリらしい。ちなみに『サンゲリア』のイタリア原題は『ゾンビ2』。確かに似たタイトルだがそんな言いがかりに屈するフルチ大先生ではない。
彼は堂々と「ゾンビはキミの専売特許ではなく、昔からハイチとキューバのものだ!」と開き直った。するとアルジェントも強くは言えず、先輩の顔を立てて泣き寝入りしたのである。こうしてフルチのオリジナリティは、アルジェントにも認められたわけである。

ゾンビ映画大事典 (映画秘宝COLLECTION)

ゾンビ映画大事典 (映画秘宝COLLECTION)

 

 『ゾンビ2』はちょっとどうかと思うが、今『サンゲリア』を『ゾンビ』のパクリだと言う人はほとんどいないだろう。*1

 

方向性の違い

上で挙げたリンクの後半で、林遣都はドラマの意気込みについてこう語っている。

劇中では、自分がゾンビ化してしまうんじゃないかという不安を抱え、悩み苦しむ人達を放っておけない晋助の根っこにある優しさをうまく表現したいです

これを見る限り、話の路線はどう考えても『ゾンビ取りガール』とは異なる。
福満漫画には「冴えないけれど実は心優しい主人公」なんてあまっちょろいモノは存在しない。
『ゾンビ取りガール』では、たとえ世界にゾンビが蔓延っていようが死にかけようが主人公の心理描写の重点は「非モテ」的な部分に置かれており、悩み苦しむのは主人公であって他人ではない。
ゾンビ化への不安などよりも、軽そうなヤンキー女と清純派美人の間で(自分の中だけで)揺れ動く心理の方がよほど大きく描かれている。
また単に主人公がゾンビに対して鈍感という事ではなく、社会全体がゾンビがいる光景を当たり前のものとして受け入れているのがこの漫画の世界観だ。
ここに展開されるのは「ゾンビがいる」という特殊な世界での心理を描く、ロメロ的人間ドラマではない。「ゾンビがいる」という世界でのごく日常的な心理を描く、福満的小規模ドラマである。
見てみない事には分からないが、ドラマはおそらく前者のロメロ的人間ドラマを緩い形で描きたいのではないかと思う。
そこで繰り広げられるストーリーは、おそらく「ゾンビ取りガール」とは別物だろう。*2


結論

蓋を開けてみれば設定は似ていても全くの別物という可能性は充分ある。これまでだってゾンビものはネタ被り上等、パクリだかオマージュだか満載でやってきた。

ゾンビは設定より中身で勝負だ。

そうは言っても限度というものはある。
いくらストーリーが違っていても、主人公がゾンビ捕獲のギミックをやたらと作っていたり、投げ縄が得意なバーコードのおっさんが出て来れば流石にちょっと抗議したくなる。
まぁとにかく、見てみない事には分からないという事だ。私の住んでる地方では放送されませんけどね。

 

それはともかく、今日本で一番ホットなゾンビ漫画『就職難!!ゾンビ取りガール』は好評発売中です!!

就職難!! ゾンビ取りガール(1) (モーニング KC)

『アイアム~』……なんでしたっけ?ちょっとタイトルが思い出せませんが、そのヒーローがどーの……

福満しげゆき先生のア〇アムアヒー〇ーに対する鬱屈した気持ちを読めるのは『就職難!!ゾンビ取りガール』だけ!!

 

就職難!! ゾンビ取りガール(1) (モーニング KC)

『就職難!!ゾンビ取りガール』2巻は9月22日発売!!9月22日発売です!!!!

 

就職難!! ゾンビ取りガール(1) (モーニング KC)

 

アイアムアヒーロー 1 (ビッグコミックス)

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*1:ちなみに引用した部分だけを見るとフルチを皮肉っているようにも見えるかもしれないが、この後熱くフルチについて語っている

*2:ドラマの方も「ゾンビの存在が日常化した世界を舞台に繰り広げられる」そうだが、ゾンビ化の不安、悩み苦しむ人達を描くという点で心理描写さえもが日常的である福満漫画とは異なるものになると思う。多分