ダメ人間でありたい、という願望

今、猛烈に西村賢太が読みたい。

最近、真面目に社会人として生活している。
23時には寝て、6時には起きる。犬の散歩に行き弁当を詰め、電車に乗って30分前には会社に着く。会社から帰宅した後は仕事に関する勉強をして、余裕があれば本を読む。
この間転職して以来ずっとそんな生活を続けていて、自分が自分で無いようで気持ちが悪い。
これまでは昼夜逆転当たり前、電車に乗れば遅刻の常習、車に乗れば時間ギリギリ。そんな生活を送っていた。支払を引き延ばした挙句に督促状が来ることもしばしばで、段取りが悪いため仕事の要領も悪い。

前職からは多少まともにやっていたものの、それでも寝るのは4時だったし、遅刻ギリギリで滑り込むのも稀ではなかった。
そんな自分が、かくもまともに生活できるのかと驚いている。

新卒ならまだしも26でその感想はないだろう、と自分でも思うのだが、とにかくこれまで酷い有様だったのだ。
もちろんわざとやっていた訳ではない。幼い頃から今まで、計画性というものがさっぱり身につかなかった。身に付けなかったと言った方が正しいのだろうが。
カビパン・やっていない宿題・溜まったプリント・必要以上に多い教科書(ただし必要なものは欠けている)の4種をランドセルの中で熟成させていた頃からずっと、
自分はダメな人間だと悩み続けてきた。だがそれでもだらしのなさは直らなかった。

それが今になって直りつつある。一体何故だろう?と自分なりに考えてみたのだが、どうも一番の理由は自尊感情の安定にあるような気がした。
ダメだダメだと言っていないで具体的な対策を考えて軌道修正すればよかろう、とやっと気付いたのが大学の頃。
そこから最初に入った会社が恐ろしく肌に合わずまた色々と崩れ始め、次の職場で仕事に慣れると共に持ち直し、
順調な滑り出しの現職場で「自分いけるやん」と思うと共にだらしのなさが鳴りを潜める。
これからはもう督促状は来ない…!来ないぞ…!
しかしはてなは性格のねじくれた人はよく見るが、この手の駄目な同類はあまり見かけない。
もっとレベルの高いところで悩んでいるイメージだ。観測範囲の問題だろうか。

だがたとえ良い方向に向かっているとしても、自分の中で強烈な揺り戻し願望が沸いてきてしまう。
非モテ」やら「ダメ人間」やら、マイナス方向のポジションには、ある種の甘美さ、中毒性みたいなものがある。
ネットでよくいう「おまえら」とは、主にこういうポジションに居る層をまとめたスタンドアローンコンプレックス的な集合体を指しているのだろうが、
そうした「おまえら」でいるという事は、案外心地が良い。自分なんか…というポーズを取りながらも、結局そんな自分が好きなんだろう。
「負のナルシズム」なんて散々書き尽くされた事を今更書く必要は無いのだけれど、なんというかこう、自分も結局そうなんだなあというのを今噛みしめている。

たまに、前の職場が恋しくなってしまう。今の職場はまともだ。
ぶつぶつと隅で呪詛をつぶやく鬱病の先輩も、自傷跡だらけの同僚も、サブカルクソ野郎の上司も、オカルトマニアのおっさんも、カルト宗教の信奉者もいない。
明らかに精神を患った爺さんにがなり立てられる事もなければ、自爆営業的に商品を買わされる事もない。「死ね」という言葉がカジュアルに飛び交ったりもしない。

自分では思ってもいない愛想を極端に振り撒きすぎて、他人の言葉も信じられなくなっていた自傷跡だらけの同僚。
いつも適当に話を聞きながら「こいつ大丈夫か?」と半ば呆れていたが、そんな同僚が私は嫌いではなかった。

寂しいと思う。でもそこに戻る訳には行かないので、西村賢太を読んで我慢する。駄目な人が描かれた作品が、今どうしようもなく読みたい。
クワイエットルームにようこそ」という精神病院を舞台にした映画のラストを少し思い出す。精神病院を退院する主人公は、病院で親しくなった仲間のアドレスをゴミ箱に捨てる。
私も戻っては行けないと思う。が、同僚のアドレスは携帯に入ったままだ。

 

(やまいだれ)の歌

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