村上春樹的「やれやれ」の正しい使い方 「チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏」感想

短編集『カンガルー日和』を再読したのだが、読んでいる途中、「やれやれ」というお決まりの文句が目に付いた。
揶揄的な見方をされる事も多い、村上春樹的な「やれやれ」。「やれやれ、僕は射精した」というフレーズがやたらと一人歩きしていたりする。
パロディの対象となる事も多く、大体はちょっとした悪意を込めた使われ方をする。
これらのパロディを数多く見てきた故に、最初に「やれやれ」に遭遇した時は一瞬、微妙な気分になった。
だが『カンガルー日和』に収められている一編、『チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏』を読んだ時、さすが本家本元、やはりパロディとは違うと思わされた。

我々はその土地を「三角地帯」と呼んでいた。それ以外にどう呼べばいいのか僕には見当もつかなかった。だってそれはまったくの、絵に描いたような三角形の土地だったのだ。僕と彼女はそんな土地の上に住んでいた。(中略)

 「三角地帯」の両脇には二種類の鉄道線路が走っていた。(中略)これはなかなかの眺めである。「三角地帯」の先端で電車の往き来を眺めていると、まるで波を割って海上をつき進んでいく駆逐艦のブリッジに立っているような気分になる。
 しかし住み心地・居住性という観点から見れば「三角地帯」は実に無茶苦茶な代物だった。まず騒音がひどかった。それはそうだ。なにしろ二本の鉄道線路にぴったりはさみこまれているわけだから、うるさくないわけがない。玄関の戸を開けると目の前を電車が走っているし、裏側の窓を開けるとそれはそれでまた別の電車が目の前を走っている。目の前という表現は決して誇張ではない。じっさい乗客と目が合って会釈できるくらい間近に電車は走っていたのだ。今思い出してもたいしたものだという気がする。
 でも終電が通ってしまえばあとは静かじゃないかとあなたは言うかもしれない。まあ普通はそう考える。僕だって実際に引越してくれまではそう考えていた。しかしそこには終電なんて存在しなかった。旅客列車が午前一時前に全部の運行を終えてしまうと、今度は深夜便の貨車の列がそのあとをひきついだ。そして明け方までかけて貨車がひととおり通り過ぎてしまうと、翌日の旅客輸送が始まる。その繰りかえしが来る日も来る日も蜒々とづづくわけだ。 

 やれやれ。

カンガルー日和 (講談社文庫)

カンガルー日和 (講談社文庫)

 

 

実際ならどう考えても「やれやれ」どころではない。プライバシー0、昼夜問わず続く騒音、ノイローゼ一直線だ。
そこを「やれやれ」で済ますこの非現実感、現実的な生々しさを一言でスポイルしてしまうこの感じこそがまさしく村上春樹的「やれやれ」の正しい使い方である。
少なくともこの短編内において「やれやれ」は効果的に使われているし、自分が住むリアルな「現実」を相対化するこの一言が私は好きだ。
そもそもこの「やれやれ」という言葉が出てくる文脈が重要な訳で、一文だけを抜き出して草を生やすような揶揄のされ方はいかがなものかと思う。

ただこの非現実感に対して批判的になる気持ちも、分からないでもない。
牛丼屋で2週間ぶっつづけで勤務した後の明け方に村上春樹を読み、「やれやれ」じゃねーよ!とキレている人がいるとしたら、私はその人に何も言えない。
現実的な泥臭さを描かない事が、人によっては魅力的に映り、人によっては馬鹿らしく映るのではないかと思う。

で、この「やれやれ」な三角地帯の話はどう収束するのかと言うと、村上春樹にしては珍しく、割とほっこり系のオチがついている。
轟音に囲まれた安アパートの、一時の静寂。そんな風景を鮮やかに切り取ったラストは、苦い喪失感を伴う短編の多い『カンガルー日和』の中にあって、一服の清涼剤の役割を果たしている。
村上春樹が少し苦手という人にも、おすすめしてみたい一編だ。