百年の孤独より赤朽葉家の伝説の方が面白い? オマージュと本家、どちらを先に読むか

丁寧に選んだ故にエッジにいるのではなく、拘って選んでないが故にマイナーなものも知っているに過ぎない - 太陽がまぶしかったから

この記事が面白かったので、それについて思ったことを。

 

上の記事ではヘーゲルアウフヘーベンという概念を引いたうえで、こう述べている。

この概念をあてはめると、しばしばマイナーになってしまう派生作品にも系譜学的に源流となるメジャー作品の中の「積極的な要素」が含まれていると考えることができる。実際、過去作品の引用の羅列のような本や映画やアニメなども多いわけだし、主張や物語の構造やSF的アイディアにも大きな違いはない。むしろ迂遠になりがちな源流作品よりも骨子を抜き出すのが楽だ。主観的に順序が逆になれば、源流側の作品にこそ「古さ」を感じるし、理解するのも楽になる。


 つまり「積極的な要素」はどうせ保存されているのだから、新しいものだけを摂取してればよいという暴論もあり得る。こういう事を書くと、本当に良いものを知らないままなんてとか言われるのだろうけれど、名作を効率よく摂取するためのリストをメンテナンスし続けたり、買っただけで満足しているよりはいくらかマシだろうという思いもある。選択基準は「偶然近くにあったから」で十分じゃないのかな。

これがアリかナシかはいろいろな意見があると思うのだが、私はアリだと思った。
何を読んだかではなく、何を得たのかが大事だ。
ただ私はこれからも「これだけは読んでおきたい名作100選」のようなリストをブックマークするのをやめられない。
「これを読んだ」と言いたい、そういう虚栄心を捨てられないからだ。


北上次郎大森望の対談型書評集『読むのが怖い! 帰ってきた書評漫才~激闘編』
で、両氏がお互いにオールタイムベスト3冊を読ませる、という企画があった。
そこで大森望はその中の1冊に『百年の孤独』を選び、それを北上次郎は読んだ。
百年の孤独』は多くの作家が名作として挙げ、名作リストのようなものにもよく登場する。
が、北上次郎は「面白い」とはしつつもピンと来なかったようだ。

北上 いや、面白かったよ。面白かったけど、先に『赤朽葉~』読んじゃってるからさ。最初にこれ読んでたらビックリするんじゃないかな。
大森 (笑)。そうなんだ。
北上 『赤朽葉~』の本家だって聞いてたから、なるほどねって読み始めたわけ。だから『赤朽葉~』を読んだときはビックリしたんだよ。よく考えるなあって思って。
(中略)
北上 年数経っちゃうと類似のものを先に読んじゃってるから、なかなか感動が伝わってこないもの、っていう違いはあるよね。
p302

 

大森 新本格を読んでからエラリー・クイーンを読んだらつまんなかったみたいな話ですね。
北上 そういうのあるの?
大森 本格ミステリだと、黄金時代の大トリックを前提にして、そのバリエーションを編み出すのが常道なんですよ。そっちを先に読んでも、「このトリック知ってる!」と(笑)。
新本格の場合は、ミステリマニアの作家がむかし感動したトリックをアレンジして、近代的にしてるから。
北上 でもそれはしょうがないよね。読者も世代交代してるし、時間があるんだからさ。
p304

読むのが怖い!―帰ってきた書評漫才 激闘編

読むのが怖い!―帰ってきた書評漫才 激闘編

 

 

北上次郎は割と感想をストレートに表現するタイプで、これはすごいだとかこれは物足りないだとか、率直に話す。
いいおっさんなのに、「格好つけずに」本を評せる。この姿勢が持ち味だ。
小心者の私は同じような事を思っても、多分言えない。

 

実際の所は、エラリー・クイーンより先に新本格を読んで、それに驚いたり感動したりしたのならそれでいいのだと思う。
小説には時代性があるものだし、その意味でも新しいもの、自分と同時代のものを読む事には意義がある。

 それでもオマージュを先に読んでしまう事に対してどこか「もったいない」と思っている自分がいる。新鮮な気持ちで原典に触れて、「いやぁー良かった」と言いたい。そんな事を考えながら、今日も積読が増えていく。

多分この性分は捨てきれないが、「名作」を読むことが全てではないという事は、頭に留めて置こうと思う。

 

 

百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))

百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))

 

 

赤朽葉家の伝説 (創元推理文庫)

赤朽葉家の伝説 (創元推理文庫)