「本屋さんも泣きました」―新潮文庫の100冊の「泣きましたPOP」乱発に突っ込みたい

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泣けるPOP

角川、集英、新潮と、書店で夏の文庫フェアが展開されるようになった。
昔からこの夏のフェアが好きで、特に「新潮文庫の100冊」はよく参考にしている。
今年の谷崎は『刺青』かーとか今年の吉村昭が『戦艦武蔵』なのはもしかして艦これの影響もあるのかとか、色々考えながら物色するのもまた楽しい、のだけれど一つだけ気になった。
100冊コーナーに置いてあるPOPが「泣きました」だらけなのだ。
(ちなみにここでいうPOPは書店お手製のものではなく出版社が配布しているものの事だ)

 

以下、泣きました一覧。

「本屋さんも泣きました」
恩田陸夜のピクニック

「最後の3ページ、涙がとまりません」
梨木香歩西の魔女が死んだ

「泣ける!けどR18」
窪美澄ふがいない僕は空を見た

「泣きながら一気に読みおえました」
角田光代『さがしもの』

「二度続けて読み、何度も泣かされました
桜木紫乃 『ラブレス』

「200万人が涙に暮れた
小川洋子博士の愛した数式

「何度読んでも泣けます」
湯本香樹実『夏の庭』

※ちなみに「泣き」の部分を抜き出しており、この後に細かな感想が続いているものもある POPの全体像は是非お近くの書店で!(覚えきれなかった)

正確に数えた訳ではないが、全体の半数近くのPOPが「泣ける」押しだったと思う。
冊子の方でも「泣ける本」という分類を作っているし、「泣ける」という文句に強い請求力があるのも分かる。
実際にはそんな事は書きたくない新潮社の社員が、泣きながら作ったPOPなのかもしれない。

 

が、流石にちょっと泣きすぎじゃね?

夏の庭、西の魔女は一応分からなくもないものの、夜のピクニックって泣ける小説だろうか。
素晴らしい青春小説には間違いないが、泣くような所があっただろうか?と首をかしげてしまった。博士の愛した数式も、どちらかと言うと余韻を静かに噛みしめたくなるような、自分にとってはそんな小説だ。
他の本は未読のためよく分からないが、
「泣ける!けどR18」というPOPを見た時には思わず心の中で「エロゲか!」と突っ込んでしまった。

 

「泣ける」を売りにする事の副作用

もちろん感じ方には個人差がある。ピクニックや博士で号泣したという人もいるかもしれない。
ただ個人的には過剰な「泣ける」押しには少し抵抗がある。
何故なら、読む人の目的が「泣くこと」になってしまいかねないからだ。
静かな感動を引き起こすような本来優れた小説でも、
読む人の感想が「あれ、何処が泣ける本なの?」となってしまう可能性がある。
泣くことが最終目的になってしまうと、本を読むことによって生まれる様々な心の機微が、「泣きの感動」の下位互換となってしまう。

 

昔、探偵ナイトスクープという番組で

「ハイレベルな料理人が作った卵豆腐をプリンだと言って食べさせたらどうなるか」
という企画があった。結果は口々に皆が「まずい」と口にしたのだった。
これは極端なたとえだが、目的の転換によって正しい評価が成されないというのは起こり得ることだと思う。

 

宣伝効果は高いのだろうが…

商業ベースで考えたときにはやっぱり「泣ける」の宣伝効果が大きいのだろうし、泣けるPOPの濫造をやめろ!とは言えない。
ただ少し、「泣ける」に惹かれて手に取る人の事を想うと、微妙な気分になる。